天や神仏から与えられた命(天命)を燃やし続ける。

松下幸之助さんは乗っていた小舟が転覆して九死に一生を得た体験をした時「私は運がいい」と思ったそうな。私も今朝、そんな思いをした。夢の中でスマホが電源が入っているにも関わらず使えなくなってしまい、それも田舎の見知らぬ土地でのことだった。連絡をしようにも公衆電話はない。民家で電話を借りようとドアを叩いたのだが、警戒されて電話を貸してくれない。どうしようかと途方に暮れていた時にありがたいことに目が覚めた。「あぁ、夢で良かった」と胸を撫で下ろした。そして、松下幸之助さんならぬ「私は運がいい」と思ったのだ。
何でもいい。「私は運がいい」と思うことが幸せな人生をつくっていく。所謂「陽転思考」だ。

今月はアンナ(Flora CEO)が31日までマンスリーマンションで東京に住み、私は彼女をOUEN Company をはじめとする在京企業の本社を同行訪問する。そのアポに都合がつけば、髙田さん(Flora COO、中央大学3年生)も同行する。美女と野獣ならぬ「美女と坊さん」の珍道中というところだ。そのスタートの朝に「幸先がいい」夢を見た。

駕籠に乗る人 担ぐ人 そのまた草履を作る人

駕籠に乗る裕福な身分の人もあれば、その駕籠を担ぐ人もいる。さらに、その駕籠かきの履く草鞋を作る人もいる。
世の中には貧富の差があり、さまざまな境遇の人がいる。これを当然のことだと思うか、あってはならないことだと思うか。
それぞれの立場の人が持ちつ持たれつの関係で社会が成り立っている。それがチームワーク。そんなチームを作りたいと思うか。
そして、そのチームのトップになりたいと思うか。はたまた、自分の器量、性格、能力を考えて、喜んで支える立場が自分の立ち位置だと思ってその立ち位置をありがたく全うするか。

青春の志はどうしても組織のトップを目指そうと思う。それが生まれてきた意味と思う。
しかし、素直な心で自分自身を見つめ、「おれがおれがの我を抑え、おかげおかげの下で生きていこう」と思い、「思い上がらず、下座に徹して生きる時」、天は必ず私を助けてくれる。

稲盛さんは「この仕事、神に祈ったか」と、その担当者に問いかけたそうな。
その意味は、神頼みをせよということではない。「神に祈るしかないところまで、君はその仕事をしているのか」と言う「人間の限界を追求せよ」との叱咤激励だ。

素直な心で自らの立ち位置を自覚し、それに徹することと、素直な心で人間の限界まで人生を極めることとは、全く矛盾することではない。

要は、天や神仏から与えられた尊い命(天命)を、生涯に亙り燃やし続けることなのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

充実した幸せな人生とは、

ここのところ、体調は今一でウォーキングはご無沙汰だったが、漸く気分は快調ムードに変化してきて、ウォーキング三昧のGWだった。 ウォーキングがてら、新宿ハンズや近くの花屋さんで観葉植物を買い求め、事務所のベランダや室内に飾る心の余裕も出てきた。
明日からは1年の「新しい生」の準備期間を経て、第二生のスタートだと気分も乗ってきている。

5日にも経堂のエステサロン「楊梅桃李」で2時間かけて全身マッサージを受けた。
五十肩の治療から通い始めたのだが、局部の治療もさることながら身体の芯から改善しないと根本的解決には至らない。
そんなことで、これから生涯に亙り身体のメンテナンスをしていこうと思うようになった。それが心のメンテナンスにもつながる。

身心一如とはよく言ったものだ。身体が快調だと心が明るくなる。心が明るくなると、積極的に身体を動かし、体調も一層改善していく。

下記の松井秀喜さんの座右の銘は、山下監督に言われた言葉だそうな。
松井さんは石川県が生んだ素晴らしい野球選手だった。私はそれ以上に、彼は「哲学者を彷彿とさせる素晴らしい人格者」であると思っている。

心が変われば 行動が変わる
行動が変われば 習慣が変わる
習慣が変われば 人格が変わる
人格が変われば 運命が変わる

心→行動→習慣→人格→運命

心身を変える(鍛える)ことによって習慣が変わり、それがその人の人格まで変えてしまう。そして、素晴らしい人格はその人の運命までも変えてしまうのだ。 人格を陶冶することにより、その人の運命はどんどん良くなる。
運がいい人は自分自身に厳しく、身に起こる全てのことを磨き砂と考える人なのだ。

昨日、この連休中に丸善で買った「70歳から人・仕事・お金に恵まれる 弘兼流 好きなことだけやる人生。」を読んだ。ストンと腹落ちした。ほぼ、私が目指す第二生と合致している。

充実した幸せな人生とは
お金がたくさんあることでも
社会的地位に恵まれることでもなく
自分が「心底好きなこと」をいくつになっても続けられること
そして、それで「誰かの役に立てる」こと

そんな第二生を生きたいと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

『善き想い』が幸せな人生をつくる。

今年は天候に恵まれたGWだ。GW最後のこの土日は雨模様のようだが、連休疲れを取るにはちょうど良いだろう。そして、GW明け、8日から、新しい人生の闘いがスタートする。

昨日もウォーキングで汗を流した。昨日のコースは皇居一周。
青山から三宅坂まで青山通りを進み、皇居を逆時計回りで半蔵門まで。半蔵門から麹町大通りを通って、赤坂見附まで。赤坂見附から青山通りを外苑前まで、19千歩強。3日間、よく歩いた。

18時から経堂のエステサロン楊梅桃李で全身マッサージだった。
楊梅桃李には月1回の頻度で通っている。70歳にもなると身体の回復力が劣ってくるのだろう。心身の健康が何よりの幸せであるから、そのためにはこのような心身のメンテナンスが不可欠だ。若い時のメンテナンスとは一味も二味も違う。決して贅沢なことではない。第二生を悔いなく送るためにも、このメンテナンスは毎月継続していこうと思う。

ウォーキングをしながら、稲盛さんが仰る「自力と他力」について考えた。
そして、事務所に戻って稲盛塾長講話集を取り出して再読した。

「一つの『自力』と二つの『他力』」と題した盛和塾ニューヨークでの塾長例会講話だ。

経営の成功のためには「一つの『自力』と二つの『他力』」が不可欠だと仰る。経営と人生はイコールだから、人生にもこの三つの力が不可欠だ。

一つ目は『自力』だ。
兎に角、自分に力がなければお話しにならない。その力は誰にも負けない努力で培ってきた「誰にも負けない『得手』」だ。
その『得手』を持っていないと人さまに頼ってばかりになって、そんな人を誰も援けてはくれないだろう。成功=幸せになるためには、誰にも負けない『得手』を持って人のために尽くすことなのだ。

二つ目と三つ目は、『他力』だ。

第一の『他力』は、志を同じくするパートナーの力だ。そのパートナーも「誰にも負けない『得手』」を持っている人でなければならない。自力と自力が、力を寄せ合って、誰にも負けない力になる。

第二の『他力』は宇宙の力、自然の力だ。善因善果、悪因悪果。因果応報の世界だ。
無限の宇宙の歴史を考えると、宇宙には「全て良かれかし」と言う不滅の大きな流れが滔々と流れているとしか思えない。
朝が来て、夜が来る。そしてまた朝が来る。そして、その宇宙の大きな唸りの中に、人間のみならず生きとし生けるものは生を全うして生きている。 その宇宙の大流に沿って生きることで、人間は幸せな人生を送ることができる。
そのビジネスは宇宙の大流に沿ったものであるか、そのビジネスには大義があるか。世のため人のためのビジネスなのか。
そうであれば、宇宙は、自然は、こちらに味方をしてくれる。それは、善因善果、因果応報の道理であろう。

この三つの力が勢揃いすることで、ビジネスは成功する。
人間は幸せになることができる。

全て『想い』が人生を決める。
善き『想い』があって、「幸せ」は近づいてくる。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

パートナーシップを大切にする。

人間は【PASSION】で生きている。【PASSION】は「情熱」であり「想い」だ。
心が熱くなってこそ、生きていることを実感する。生まれてきた意味を自覚し、与えられた使命(MISSION)を果たそうと思う。

稲盛和夫さんは『成功への情熱』で、「経営の大切な7つの要素」をPASSIONのアルファベットで述べている。

P=PROFIT(利益)
A=AMBITION(願望)
S=SINCEPITY(誠実さ)
S=STRENGTH(真の強さ)
I=INNOVATION(創意工夫)
O=OPTIMISM(積極思考)
N=NEVER GIVE UP(決してあきらめないこと)

情熱がなければ経営は成功しない。想い続けることで夢は必ず叶えることができる。
成功とは幸せだ。心が豊かになり、幸せになることだ。

オールラウンダーならぬ人間は、全エネルギーを注ぎ込み、その想い(情熱)を仲間たちに語り続けることで、その熱が仲間たちに伝導する。そして、一致団結した仲間たちとの強いチームができることで夢を追い続けることができ、必ずや、その夢に到達することができる。

真っ直ぐに生きろ!
熱くなれ!

第二生で、そんな「燃える、炎える心」を持って生きていくことができるだろうかと思っていた。
生まれ変わったとは言っても、決して70歳の年齢は若返るわけではない。

勿論、一人では戦うことに限りがある。「匹夫の勇」ではどうしようもない。
そんな時、真っ直ぐ、熱い熱を持った若者たちが私の前に現れた。

老若男女、それぞれの得手を持ち寄り、謙虚に自らをわきまえ、己の凹みを埋めてくれる凸と強いパートナーシップを組むことによって、その団結はベストバランスの「丸い理想の球形」になる。

私は老であり、男だ。若者と女性とのパートナーシップが私の素晴らしい第二生をつくってくれる。
そのことに深く感謝し、謙虚さを忘れることなく、人生を生きていこうと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

ウォーキングをしながら、第二生の「生き方スタイル」を 確認する。

大型連休後半の5月3日、11時半〜15時半の4時間、ウォーキングで外苑前と丸の内を往復した。昼食を摂ったので、ずっと歩いていたわけではない。それでも23千歩は歩いた。全く無理をして歩いていない。ウォーキングが好きで健康にもいいと思うから自然と脚が進むのだろう。五十肩の痛さも大分安らいできたことも大きい。

本屋は日本橋丸善が圧倒的だが、新宿紀伊國屋や丸の内丸善もよく利用する。ウォーキングのついでや仕事の合間の時間潰しに立ち寄る。 以前は、ネットでAmazonを利用していた時もあるが、何度かセキュリティに不安を覚えることがあって、ある時からネットの利用を止めた。 スマホは専ら、情報入手か電話やメールやLINEで、知った人たちとのコミュニケーションのみに使うことにしている。

昨日購入した本は以下の6冊だ。
①「君が思うより人生は短い」(仙田琢哉著、あさ出版)
②「仕事は個性で決まる」(弦本将裕・辻森英一共著)
③「90歳の人間力」(外山滋比古著、幻冬社新書)
④「人間の器」(丹羽宇一郎著、幻冬社新書)
⑤「不老脳」(和田秀樹著、新潮新書)
⑥「弘兼流 好きなことだけやる人生」(弘兼憲史著、青春新書)

どうしても購入する本は、ジャンルが決まってしまう。私は小説は読まない。評論のみだ。
それも著者でどうしても人間的に好きになれない人の本は買わない。どんなことが書いてあるか読んで確認することは時間の無駄と思うからだ。それではバランスが偏ってしまうと思うが、数多くの老若男女とコミュニケーションを心がけることでいろいろ刺激を受けることでカバーしていると勝手に納得している。

70歳の第二生はこれからだ。昨年の立春(2月4日)が誕生日なら今は1歳を過ぎたところだが、生前葬&出陣式をした6月4日が誕生日なら後1ヶ月で1歳になる。
どちらにしてもまだまだよちよち歩きだ。第一生の経験の下駄を履いているので、1歳を区切りに新しい「生き方スタイル」を確立して人生をリセットして再スタートをしようと思う。

購入した本は、そのための「生き方スタイル」の確認作業の参考書のようなものだ。そしてそれを確信にまでしたいと思う。

中村天風翁の仰る、
「怒らない」
「恐れない」
「悲しまない」
人生は絶対積極が大前提だ。

第二生の私のモットーは、
「敬天愛人」の心を完徹するために、何事も「絶対積極(ぜったいせきぎょく)」の精神力を持って、人の援けに応える「応援人生」を送ることだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

人生の目的は「人を応援する」ことだ。

昨日、京大応援団OBの吉森さんから「朝日新聞朝刊の読者欄に下記の投稿があったのを読んだ。感動しました」とメールをいただいた。
題目:応援団 人のために夢中になれる

投稿者:大学生 田中愛菜さん(福岡県 19)

投稿文
1年前、大学の入学式で応援団の演舞を見た。
「応援」という純粋な情熱と温かさに涙がこぼれた。勝負ごとやお祝いごとでは、何か特別な感情が生まれる。応援とは、その感情に華を添える役割だと私は感じた。そして応援団に入団した。

この1年、声の出し方や楽器演奏など、きつい練習に目的を見失うこともあった。でも応援は「他人の人生の大事な局面に立ち会うこと」だと自分に言い聞かせ、耐えた。
この春、私は応援団員として入学式の舞台に立った。マーチングメドレーで会場が盛り上がるにつれて、硬かった新入生の顔がだんだんほころび、若い笑顔が咲いた。

中学時代は陸上部、高校は弓道部と、ずっと自分自身とだけ向き合ってきた気がする。応援団で初めて、人のために全力を尽くすことに本気になれた。そんな自分がうれしい。

私は、偶々今年1月、Flora(株)を立ち上げ、CEOとして日本で花を咲かせようと人生を懸けているウクライナ出身のアンナさんに出会い、彼女やFloraを応援しようと思った。
それが確信になったのは4月20〜21日に彼女が京都から東京に上京して、私が親しくしているOUEN Company を数社訪問したことがきっかけだ。
彼女の経営者としての「想い」と「経営者魂」を強く肌で感じたからだ。

彼女はウクライナから京都大学法学部に入学。アメリカの大学に短期留学して経営を学び、京都に戻ってFlora(株)を創業した。
26歳と若いが、私には想像できない挫折を感じて生きてきたのだろう。まさに、稲盛和夫さんの「苦を磨き砂」にしている。
私など、馬齢を重ねてきただけで、その箴言はまだまだ血肉になっていない、言葉の域を超えていないのだ。本物の苦を体感していないからだ。

素直な心でいると、若者から人生を学ぶことは多々ある。こちらが教えることも沢山あるが、人から学ぶことも同じくらい沢山ある。よくいる大人のように「分かったような振り」をしてはいけない。

アンナが京都大学生だったこともあり、京都大学応援団OBで4年後輩の竹田真一さんにアンナの応援を頼んだ。
竹田さんは「いぶき会」(京大応援団OB・OG会)の副幹事長をしている。私が発起人の1人である国立七大学応援団OB・OGの集いである「七朋会」でも番外幹事を喜んでしてくれている。「人柄の竹田」だ。その「人徳」の極めて比重が大きい「人柄」で人生を渡っている竹田さんにお電話したのだ。
竹田さんは関西在住だ。「それでは東京にいる1年後輩の吉森さんを訪ねたらいいのではないか」と吉森さんに連絡してくれた。
勿論、私は吉森さんを良く知っている。同じ北陸、私の故郷能登の隣の越中富山出身。関東いぶき会の取り纏めをしている御仁だ。
彼の茅場町の勤め先に出向いて、リアルでお願いをした。電光石火、何人かの京大応援団OBに連絡していただいた。その結果、今月、何社か、アンナと同行訪問することになった。ありがたいことだ。
そんなことで、吉森さんとメールのやり取りをしたことが、朝日新聞朝刊の投稿文のメールになったのだ。

人は、人を「応援」して生きている。どれだけ人を応援したか、それがその人間のレベルの高低に直結するのではないかと私は思っている。
天台宗の「自利利他」「忘私利他(もうこりた)」の精神は「利他=人に尽くす」を謳っているが、それは「自分のために、人に尽くす」ことだ。自分が一番可愛いのだったら、人に尽くすことをすれば、それが心身共に一番自分のためになる。

「人に尽くす『利他』が究極の『利己』になる」「『利他』こそが、『自利』になる」「心身両面の自分の人格陶冶になる」のだ。

諺でいう「情けは人のためならず」とは、人への情けは、自分のため、自分の魂のレベルを高めるためなのだ。
私は、その想いを「応援哲学」にまで高めたいと思っている。

福岡で大学に通う投稿者の田中愛菜さんには、精々、応援団で人間を磨いていただきたいと思う。そして、応援団で学んだ「人のために生きること」「人の援けに応える人生」を大学卒業後も社会で貫いていただきたいと思う。
大学は学びがほとんどだが、社会では、学びと具体的行動、考え動く「考動」が不可欠であり、社会での応援こそが人生の本番なのだ。

「応援の心」を持って、残りの長く短い人生を真っ直ぐに歩いていきたいと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

第二生は、仕事を遊びにする。

中国五行思想では、人生を季節に準えて、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と4つの季節に分けている。
五木寛之さんは、同じくインドでも人生を4つに区切っていると言う。

インドの発想では、人生は「学生期」に始まって、「家住期」「林住期」「遊行期」と続く。

「学生期」とは、人生の準備期間、世に出る前のトレーニング期間。五行思想の「青春」だ。人生を生きるためにその基礎を学ぶ時代だ。

「家住期」とは、盛年の時期。仕事に就き家庭を持ち、社会的存在になる時代だ。まさに燃える夏、「朱夏」であり、働く時代だ。

「林住期」とは、仕事をリタイアして悠々自適で人生を楽しむ時代。「白秋」であり、休息し思索する日々を送る時代である。

「遊行期」とは、棲家を離れて、杖1本の旅に出て、漂泊の日々のなかに悟りを求めようとする修行の旅。
修行は生涯に亙り続けていくものだと思うが、この「遊行期」の修行はその名の通り、「遊び」ながら修行をすること、「遊び=修行」だ。 「人生とはこのようなものだ」と自分が生まれてきた意味を自覚して、その意味を具現化するために、思いのまま、自由気儘に生きていくことがベストの生き方ではあるまいか。 遊びながら、自分の自由意思で、仕事を楽しむ人生を生きる。遊び=仕事がベストな生き方だと思う。

五木寛之さんも「遊行期というのは、生きることすべてが遊びならざるものはなし、という時期のことなのだと思いたい」と書いている。

私は今、五行思想では「白秋」であり、その先の「玄冬」を含めた人生の後半戦を生きている。それは、インドの発想の「林住期」と「遊行期」である。 どちらにしても、もう人生を淡々と生きる時期なのだ。

私は古稀で生まれ変わった。下駄を履いて、プラスαで第二生を生きている。第一生とは全く違う生を生きて行きたい。
それは、遊びながら、自由気ままに、「世のため人のために」生きることだ。

「われと来て 遊べや親のない雀」
(小林一茶)をもじって、「われと来て遊べや心清き若人たち」を合言葉に、若者たちと人生を謳歌して第二生を生きて行きたいと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

「新老人」の勧め

GWの1日目(29日)は、朝方左脚のくるぶしに少し違和感があり、痛風の前触れではないかと少し心配したが、ガブガブと水を飲むことで何とか痛風は遠ざかっていったようだ。
どうしてもプリン体を含む食べ物が好きなのでこんなことになる。しかし、好きな食べ物を食べないとストレスが溜まる。やはり絶えず有意注意をすることだ。バランス良い食事を心掛けることだ。 これは痛風に限らない。歳を取ると全てのことは「有意注意」が基本だと思う。

そんなことで、連休初日は明治神宮コースでウォーキングを楽しんだ。外苑前から青山通り〜明治通り〜明治神宮〜新宿(伊勢丹)〜新宿通り〜四ツ谷〜外苑東通り〜青山。10km、2時間。

昨日の30日は雨模様の予報だったのでウォーキングはしなかったが、ほとんど雨と言う雨は降らず、一日中事務所で読書をした。

何年か前に買って積ん読していた「人間の器量」(福田和也著、新潮新書)と、この前、日本橋丸善で買った「シン・養生論」(五木寛之著、幻冬舎新書)を読んだ。

【人間の器量】
なぜ日本人はかくも小粒になったのか。
能力があるか、ないか。
いい人か、悪い奴か。
その程度のことで、もて囃されたり、貶められたりする。
人物観の平板さが殺すのは、人材だけではない。
人を単純に切ったり、持ち上げたりする人は、自分に対しても、そういう見方しかできなくなってしまう。
自らの心と資質は、測りがたい。
善悪、良否の敷居をこえてしまうような人間観、その物差しとして器がある。

【シン・養生論】
私は五木寛之さんの著作を好んで読む。ちょっと暗いところがあるが、それが私には似合わないわけではない。私も本当のところ、そんなところを持っている。 五木さんの著作に私は人生の深い襞を感じる。人生哲学だ。
稲盛さんと同い年で、もう10年以上前だったか、お二人の対談をお聴きしたことがある。それから私は五木寛之ファンになった。

新人類ならぬ新老人の勧めに、「してやったり」と膝を打った。
五木さんが言う新老人とは、「これまでの老人像とは、価値観や感性が全く異なり、同じ人間とは思われない新世代の老人たち」のことだ。

ご隠居さんでもなければ、単なる扶養家族でもない。子どもや孫たちの世話になるのではなく、貧しくとも経済的にも、生活的にも自立した高齢者だ。 受ける権利のある国の保護は、可能な限り活用しつつ自立した生活を試みる。
病気やその他の個人的事情は、当然それに応じた配慮が必要だが、理想をいえば「3つのK」を何とか確立する。
「3つのK」とは、「健康」(KARADA)「経済」(KANE)「孤独」(KOKORO)。

「人生2回説」
50歳になったら、そこで一度、人生をリセットする。名前を変えて新しくこの世に誕生したことにすればよい。そこからもう一つ別な人生をスタートする。要するに、前半と後半をガラリと異なった人生にする。

私はそのリセットを70歳でした。ちょっと遅すぎたが、そうであれば人生を100年ではなく、120歳までに延長すればいい。
私は、第一生の名前は「小林博重」だが、第二生のそれは「不動院重陽博愛居士」になった。
第一生とは全く違う第二生を生きる。別の人生をスタートする。

昨年6月に生前葬&出陣式を行なって、来月で満1年が経つ。1年の充電期間を経て、今、漸く、スタート台に立つ。
どんな第二生を送るのか、ガラッと違ったものにしたい。朧げながら見えてきているが、それをもっと総天然色にすることだ。

第二の生を生きる。実に楽しみだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

「凡人」であることの幸せ

GWの前半、今日は一日中雨模様だ。
相田みつをさんの言葉が思い浮かぶ。

雨の日には 雨の中を
風の日には 風の中を

晴れの日が良く、雨や風の日が悪いのではない。雨のおかげで草花は潤い、風のおかげで風力発電ができる。

宇宙は138億年前に超高温・超高圧の火の玉が爆発(ビッグバン)することで始まったと考えられている。宇宙は超高温・超高圧の状態から始まり、現在も膨張を続けているのだとか。 その膨張は偶然の産物ではなく必然性があり、この世には全てのものを進化発展させていく「宇宙の大流」があると考えざるを得ない。 雨が降るのも、風が吹くのも、「全て良かれかし」と言う「宇宙の意志」によるものだ。

だから、身に起こる全てのことを「宇宙の大流に沿ったこと」、それは「宇宙の意志」と思い、全てを素直に受けとめて、感謝する心を持って生きることが大切なのだろう。

そうは思っても、なかなかそんな心持ちにはなることができない。それでもそう思おうとすること、真っ直ぐに生きようとすることで、未熟な我が身であっても思いもかけぬ幸せの種が降ってくるのだ。

千里眼であればそんなことは当然なことだと思うだろうが、そうでない凡人の我が身には、その予想外の種は「生きる意味の源泉」であり、「成功し続ける原動力」になる。

人間は千里眼でないほうが幸せだ。僥倖を当然と思わず、感謝の心を持つことができるからだ。

平々凡々の凡人であることは幸せである。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

第二生の生き方スタイルは『応援』を極めることだ。

今朝も3時に目が覚め、充分寝足りた感があったので起きて事務所に出かけた。
それはそうだ。昨夜も20時過ぎには床に就いて7時間は眠っている。70歳の正常な老人の生活パターンだ。

もう私の年齢になると悠々自適の生活をしている人が一般的だろう。
その点、政治家先生は70歳は脂が乗っているピークだ。八十路を過ぎても妖怪のように政治の世界を闊歩している老政治家は珍しくない。政治家のこの「老いて益々盛ん」なバイタリティは、ある意味で尊敬に値する。

私は、70歳を境に、生前葬を済ませ第二生を生きていることもあって、精神的にはゼロからの新たなスタートであり、肉体的には老人としてのこれも新たなスタートでもある。この相反する2つのスタートが、得もいわれぬ私独自の「生き方スタイル」を醸し出しているように思う。

政治家先生や大企業のトップの方々は、第一生の集大成として、最後の力を振り絞って走っているのだろうが、私は第一生を終えての新たなスタートだから、その「生き方スタイル」は全く違う。 悠々自適というのではない。全力疾走なのだが、それは老人の私なりの全力疾走であり、全く無理のない全力疾走だ。

若者たちと対等に(あくまでも対等)に、それぞれの得手を持ち寄って夢を追いかける。
若者たちが主役で私が脇役と言う位置関係がベストだ。そうでないと若者が成長しない。私は若者の成長のスピードに拍車をかける触媒であり、それが『応援』の本質なのだ。これが私の第二生の「生き方スタイル」なのだ。

若者たちとザックバランなディスカスをする。お互いが本音を言い合うことで、ビジネスのベストチョイスを模索することができる。

やはり、老いて悠々自適な生き方は私には全く似合わない。
老人にとって、最高に幸せな最期は、「全力疾走して前のめりになって倒れて旅立つ生き方」を貫くことだと確信する。

そのための肉体のメンテナンスだ。前のめりで倒れるためには健康でないとそうはならない。

今日からGWのスタートだ。
今朝は、毎月通っているかかりつけ医で数種類のいつもの薬を処方していただこう。
そして、2時間ウォーキングで心身をリフレッシュしよう。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)