第二生は Win Winの連鎖をつくる人生

土曜日もアンナと珍道中だった。
丸の内の新国際ビルにある生命保険アンダーライティング学院を訪問し、帰りにオアゾの丸善3階の喫茶店で打ち合わせの時間を持った。

話は東大と京大の学生の気風の違いにまで及んだ。彼女はほんとに外国人なのかと思う。日本人よりも日本人だ。
いや、人間の本質は人種・国籍を超えて同じということか。いろいろな気付きがある。それも孫のような外国人の若い女性からの刺激は実に新鮮だ。

帰りに3冊の新書本とお香を買い求めた。香りある空間で本を読むと心が穏やかになる。
早速、事務所に戻り、ラベンダーのお香を炊いて本を読んだ。

本と香りと草花が、私の心を豊かにする。

1.人生は出会いだ
(人との出会い、本との出会い)
2.仕事が人生をつくる
(仕事の意味は、生活の糧と志を果たす2つがある)
3.遊びや余暇は、仕事を補完するためのもの
4.人のために生きることは自分のために生きること(自利利他)
5.人生の幸せの究極は「忘己利他(もうこりた)」
6.あと半世紀、第二の人生を謳歌したい

昨日の産経新聞朝刊に「女性の比率 抜け道許さず」と題した記事が掲載されていた。

女性管理職比率を高めることをはじめとして女性活躍を如何に進めていくか、企業には大きな変革が求められている。決して、社外取締役の登用だけでお茶を濁すことは許されない。 人間として男性と対等に、社会で女性が活躍するステージを、自然体でつくっていかなければならない。
男性のみならず女性も今までの考え方を変えることだ。
男女共同参画社会をつくるということは、男女が対等に協力し共に働く社会(男女協働社会)をつくっていくということだ。

そのために、私は何をするか、何ができるか。

私の温かいネットワークに清らかな美しい水を流すことだ。それは、延いては OUEN Company を応援することにつながる。 人の輪は人の和であり、Win Win が重なり、Winの連鎖が無限に拡がっていく。

私の第二生は、そんなWin Win の連鎖をつくる人生でありたい。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

産経新聞朝刊記事(2023.5.27)

5月の改めての「気付き」

アンナとの珍道中で改めて思いを強くしたことがある。
それは以下の4つだ。

1.友だちの友だちは皆友だち
2.犬も歩けば棒にあたる
3.穏やかな心が幸せを呼ぶ
4.身体のメンテナンスを怠らない

1.について
5月は、OUEN Companyをはじめとした企業、および、私がルートのない企業を紹介してくださるであろうと思われる友人・知人とのセッティングをした。30社に及ぶだろうか。

皆さんには快くお話しを聴いていただいた。私の人とのつながりは有限であり、どうしても人さまのお力をお借りしないと企業とのパイプは拡がっていかない。 Floraのサービスがタイムリーであること、それが広く、世のため人のためになるサービスであることがあっての広がりだ。アンナの人柄もある。人の有り難さを痛感する。

2.について
やはり、リアルでないと人との関係は深掘りすることができない。あくまでもWebは補助手段に過ぎない。特に、「人」を扱う血が通うビジネスではそうだ。 さらに、リアルで人と接すると、想定外のビジネスのタネを見つけることができる。

3.について
争いや諍いは人の心を貧しくする。温かい心、穏やかな心でビジネスをすることだ。
私はFloraのサポートをするようになって、心が穏やかになっていく自分を発見する。そして、本屋と同様、週に一度は花屋に立ち寄るようになった。 心のメンテナンスはビジネス成功の大きな要素だ。

4.について
身体のメンテナンスはビジネスの成功、人生の幸せに不可欠の要素だ。
身心一如、心と身体は一体である。身体が具合が悪いと心も貧しくなる。五十肩はまだまだ完治とはいかないが、徐々に快方に向かっていることを実感している。完治には今年いっぱいかかるかもしれないが、少しずつでも日々快方に向かっていることが心を穏やかにしてくれる。

自分がいる位置の高低よりも、よりよい方向に向かっているという方向性を実感することで、人間は幸せを感じるのだろう。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

第二生のキャッチフレーズは「友だちの友だちは皆友だち 」だ。

「タモリの笑っていいとも!」のキャッチフレーズは「友だちの友だちは皆友だち」だった。水前寺清子が歌う「友達の唄」にも♬友達の友達は皆友達だ♬の歌詞がある。「類は友を呼ぶ」という諺もある。
人は一人では生きていけないから、できるだけ多くの友だちがいることで幸せな人生を送ることができる。勿論、悪友は悪友を呼ぶ、悪友しか呼ばないから、自らは心清く美しく純粋に生きる必要がある。

私のビジネスは、まだまだビジネスとは言えた代物ではないが、「友だちの友だちは皆友だち」が私の生きる哲学のベースにある。

バリバリ働く年代を過ぎるとビジネスライクで生きてきた人は一般的に人とのつながりが細ってくる。しかし、私はビジネスライクで生きることをしたくないと思って「義理と人情」も生きる哲学のベースの一つにしているから、人とのつながりは細るどころか歳を重ねるにしたがってどんどん拡大していく。 だからビジネスでも人のお役に立つことができると自負している。

これからが私のビジネス(&ボランティア)の本番なのだと思う。それまで第一生の70年を要した。そんなことで、天は私が長生きをするように、私に命を与えてくれた。と、何事も人生を前向きに考えることで、楽しく幸せな人生を送ることができる。

昨日はアンナ同行で、東大応援部後輩の石田参議院議員の事務所にこれも東大ボディビル&ウェイトリフティング部の後輩で政策秘書の五反分さんをお訪ねした。 「友だちの友だちは皆友だち」を地で行くように、東大アメリカンフットボール部OG(マネージャー)で朝日新聞編集委員の秋山さんがいらしていてご紹介いただいた。

五反分さんに「小林さんはピュアに生きているので、たくさんの人たちが小林さんを応援している」と言っていただいた。そして「アンナさんは応援したくなる人だ」とも仰っていただいた。

『応援の連鎖』が日本を元気にする。そんなことで「応援を哲学する」ことが日本を元気にするのだ。

「ピュアに生きる」とはどういうことだろう。稲盛和夫さんはピュアに生きた方だが、まだまだ私は全くその領域に到達していない。

ピュアは人生成功の必要条件だが、必要十分条件ではないのだ。それ以外の条件を満たしていないから泣かず飛ばすなのだ。
生まれ変わって、ゼロから第二生を送る時、援け援けられる心清き友と緩くても強固なパートナーシップを構築することで、足らずの必要条件はクリアできるのではないか。 自らが持っている条件と併せて必要十分条件にして、夢を追いかけ、実現する。
そんな第二生を生きたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

パッションある若者から生きるエネルギーをいただく。

アンナとの企業同行訪問の間に、虎ノ門駅に下車して、西新橋にあるウクライナ料理店「スマチノーゴ」(港区西新橋1-19-8)https://www.smachnogotokyo.com/でランチを食べた。
「スマチノーゴ」の意味は、「美味しく召し上がれ」
港区観光大使の高柳由紀子さんのご紹介だ。

12時半、お昼の真っ最中だった。いつもお昼は満席だそうだが、幸運にも待たずにテーブルに着くことができた。
店舗はそんなに広くない。せいぜい20席くらいか。
ウェイトレスは4〜5名のウクライナの女性たちだ。お客は日本人が多いが数人の外国人の団体も来ていた。

ランチタイムはメニューが3つあって、私は「キーウ風カツレツ丼」、アンナは「ウクライナ風ロールキャベツ定食」を注文した。
ウクライナ料理を和風にフュージョンしている。

ウェイトレスはアンナを見るなり、ウクライナ語で話しかけてきた。同じ国の人と分かったのだろうか。
アンナは「文脈上、ウクライナ人と思ったのでしょう」と。ロシアもベラルーシもウクライナも私には全く見分けがつかないが、日本と韓国と中国の違いがそうであるように、政治のみならず文化は厳然と相違している。

スマチノーゴから午後2時アポのプラス(虎ノ門タワーズオフィス)まで徒歩で20分。風は強かったが雨でなくて良かった。時間の余裕があったが、少し速足でプラス本社まで行った。

アンナは「団長、お元気ですね。私は毎日ドッと疲れてやっと回復して次の日を迎えますが、団長はそんなことはないように思います」と。
私は「アンナこそ、夜昼なくベンチャービジネスのみならず、世界に広がっている社員のメンテナンスをしていて、そのバイタリティは若さと熱意の塊がなせるものだ。私はアンナのパッションをいただいているんだ」と返す。
すると、アンナは「団長が私のエネルギーを取っていくから、私は疲れるんですね」とニコッと笑う。
私は、こんなふうに弥次喜多道中を楽しんでいる。

パッションがある若者と同じ夢を追いかけることができることにこよなく幸せを感じる。
それぞれの得意技を持ち寄って同じ夢を追いかけるのだ。それが古稀を過ぎて若者と同じ目線でできることは幸せであり、これが若返る秘訣であろう。

私は、「これから素晴らしい第二生を送ることができる」と心から喜んでいる。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)


西新橋「スマチノーゴ」にて

素晴らしい人たちとの出会い

アンナとの『美女と坊さん』の珍道中(企業同行訪問)は、早いもので2週間以上に及ぶ。31日が最終日だから、あと1週間だ。
Floraの社員は多国籍なので、アンナは真夜中でも仕事をしていることが間々あるらしい。私の真夜中の徘徊(2時〜5時)とは全く違って、彼女は経営者として、明るく、素直に、元気印で、必死に生きている。若い彼女に教えられることはたくさんある。

人間のレベルは馬齢を重ねただけでは、若くても魂年齢が高い人を超えることはできない。

彼女と私は48歳の歳の差がある。親子にしては離れ過ぎている。若いお祖父さんと言うところか。
彼女との出会いは今年の1月26日、OUEN信念会だった。まだ4か月しか経っていない。それが今月の珍道中だ。出会いは奇跡のようなものだ。

昨夜、情報技術開発(株)の藤井部長と川島さんと中嶋さんが、私たち2人との懇親の席を設けてくださった。

藤井さんとは昨年の12月9日にシャンティ(福岡市)の柴本社長のご紹介で初めてお会いした。川島さんも中嶋さんも今年1月だ。まだ6か月も経っていないのに、ザックバランなお付き合いをしている。 ほんとに人との出会いは奇跡のようなものだと思う。

私は、このような短いお付き合いでも心温まる、心を開くお付き合いに至った時、いつも思うことがある。
それは、私が安田信託銀行(現、みずほ信託銀行)を44歳6か月で中途退職したことだ。
安田信託銀行では、皆さんに一方ならぬお世話になっていた。
私の40代は、金融自由化の大流が日本にも襲ってきて、金融機関は生き残りの戦いをしていた時期だ。
そんなピリピリしていた時、「若気の至り」もあり、いろいろなことがあって、急転直下、退職を決めたのだ。引くに引けない退職だった。しかし、それからの人生は「ぬくぬくと育った生簀の魚が冬の日本海に飛び込んだ」ようなものだった。

荒波に揉まれて、「何で安田を辞めたのか」と後悔した時期も1年以上あっただろうか。しかし、稲盛さんは「人生、反省は大いにしても決して後悔はしてはならない。後悔の後に幸せはない。反省して、それを糧にして成長するところに幸せが訪れる」ことをお話しになった。

その通りだ。
そう思うようになって、「人との出会いは奇跡であり、このような素晴らしい人たちと出会って、ともに人生を生きていくことができるのは、44歳の時、『清水の舞台から飛び降りた』からだ。そのまま、安田に残っていたら、この人たちとは出会わなかった。私は運がいい」と素直に思うことができるようになった。

人との出会いは奇跡だ。
皆さんとの出会いに心から感謝する。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

新宿NSビル29階、東山新宿本店にて

助走期間を経て、これから大空に飛翔する。

昨年6月から私の第二生は始まった。
長かったようで、あっという間の70年だった。人間の寿命は有限であるから、人生100年、還暦の倍の120年を生きることは不可能ではないにしても難しいことだ。

生きることは「何かを成す」ことだ。「何かを成す」ために命=健康がある。ただ長生きをすることが生まれてきた目的ではない。生きることはあくまでも手段に過ぎない。 そのことを念頭において、命という天からいただいたものを、大切に、特に第二生ではメンテナンスを怠ることなく、与えられた「ミッション=使命」を貫徹することだ。
そして、見果てぬ夢に終わろうとも、それを引き継いでくれる志ある人を見つけ育てて、仕事のさなかに前のめりになって倒れ、天寿を全うする人生を生きていきたいと思う。人生とはそんなものだ。

この1年は私の第二生の助走期間だった。その区切りである生前葬&出陣式のイベントは行なってみて、区切りの意味を少しずつ自覚するようになった。
ビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と喝破したが、賢者ならぬ愚者の私は、やはり区切りである生前葬&出陣式を経験することによってしか、第二生の目指す在りようが腹落ちして来なかった。この1年が第二生の助走期間だったのだ。そして、漸く、今まさに飛翔の時を迎えた。

私は経営の才は全くないと自覚している。
稲盛和夫さんに憧れて、45歳になる前に「転職」をして清水の舞台から飛び降りたのだが、汝自身を知らなかったことで一時はドン底に落とされた気持ちになった。

しかし、私は運がいい。

相田みつをさんは、「途中にいるから宙ぶらりん。底まで落ちて地に足が着けばほんとうに落ち着く」と言っている。
ある知人は、「偉くなると自分の地位を意識するあまり、自由奔放に生きるということができなくなってくる。その点、小林は奇想天外なことを考えて実行に移すことを厭わない。そんな生き方ができることは幸せな人生なのかもしれない」と言った。

その通りだ。心は若くなる。身体も老けない。勿論、身体は不死身ではないからあちこちガタが来ているが、それは有意注意を心掛けてメンテナンスを怠ることなく生活することによって身体の衰えをカバーすることができる。

巡り会う人たちを大切にしようと思う。
人は一人では生きることができないからだ。人さまのお力をお借りしてこそミッションを果たすことができる。
謙虚な心で皆さんに感謝することだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

決して『恕の心』を忘れない。

毎週日曜日に、横浜たまプラーザ運動器スポーツクリニックに通っている。昨日は両肩への注射とリハビリで約1時間。痛みはピークの峠は越して下り坂を駆け降りているところだ。まだまだ全快とはいかないが、最近は五十肩を気にすることもなく、仕事も以前の健康体の時と同様に前向きに考えられるようになった。「身心一如」を実感として納得する。
何事も自らが体験しないと腹の奥にストンと止まっていない。凡人には経験から学ぶことで成長するものだ。

たまプラーザ駅からクリニックまで、徒歩で3分も掛からないが、駅前には3軒の花屋さんがある。気持ちが落ち込んでいる時は目に留めなかったが、心が穏やかになったせいだろう。通院の帰りに大きめのお店に立ち寄って観葉植物と3株の小さい薔薇を買い求めた。
田園都市線沿線は環境も良く地価も高い。懐だけではなく、心もリッチな人たちが住んでいるのだろう。街にはそんな雰囲気が漂っている。

事務所に帰ってちょっと土いじりをして、妻と長男と三男と私で外苑前の居酒屋「ミライザカ」で夕食を共にした。

3人の息子たちはそれぞれ世帯を持って家を出ている。青山の自宅は妻と私の二人暮らしだ。
2年くらい前からだろうか、息子たちの誰から言い出したのか、「小林家」のグループLINEをしている。息子たちも、3人でLINEをしている。
兎に角、仲の良い家族だ。皆んな妻を大事にしている。3人とも「お父さんが好き放題できているのはお母さんがいるからできることだ」と言う(そのことは私も重々分かっている)。

息子たちは三者三様、同じ親から生まれたのに性格は全く違う。ただ、人のことを思い遣る優しい心は共通に持っている。自分にしてほしくないことは人には決してしないという、論語の「恕の心」だ。

子貢問ひて曰く、
「一言にして以って終身之を行ふ可き者有りや」
子曰く、
「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」

【要旨】
人間として一生行うべき道を一言でいえば、それは「恕」である。

過去・現在・未来に亙って、何だかんだ話題は尽きない。
この3つの時代は全て一本の棒で貫かれている。因果応報、善因善果、悪因悪果の棒だ。
心穏やかに人生を生きること。善きことだけをすることを心掛けること。アンパンマンの歌ではないが「いいことだけ、いいことだけ、おもいだせ」を念頭に置いて生きることだ。

生まれてからこれまで、私はどんな人に影響を受けて人生を生きてきたのか、そんなことを寝床で考えていた。
私の人生で最大の転機は稲盛和夫さんに出会ったことだが、その伏線は一体何だったのだろう。

物心がついた時、やはり一緒に住んでいた育ての親である祖父母の影響はそのど真ん中にある。
どれだけ教育を受けたかではない。人間として如何に生きていくのが幸せなのかは、日々の人生を真剣に生きているところからその感性はできあがる。

「国のために尽くせ」
「人さまにご迷惑をかけるな」
「人のために尽くせ」
能登で育った中学生まで、祖父母の人生哲学のシャワーを浴びた。それが私の人生哲学のベースだろう。

金沢大学附属高校では、武者小路実篤に傾倒した。
「白樺派」「新しき村」

この道より我を生かす道はなし、この道を歩く

仲よき事は美しき哉

君は君、我は我、されど仲よき

色と言うものはお互いを助けあって美しくなるものだよ。
人間と同じことだよ。
どっちの色を殺しても駄目だよ。
どの色も生かさなければ。

自分と闘うことで自分を磨く。決して人と戦わない。
それぞれの人間の個性を天の思し召しと思い、人を蔑ろにせず、大切にする。
天は、人にその人しかすることができない得手を授けて、この世に送り出してくれている。

真夜中は私の人生の思索の時間だ。今日は2時に目覚め、事務所に出向いてblogを書いて、今は4時半を過ぎだ。
NHKの「ラジオ深夜便」を聴いて、眠くなったらちょっと仮眠する。朝風呂に浸かり、髭と頭髪を剃る。昨日の反省をするひと時だ。
稲盛さんは「日々の反省をせよ。決して後悔はするな」と仰っている。

6つの精進
1.誰にも負けない努力をする
2.謙虚にして驕らず
3.毎日の反省
4.生きていることに感謝する
5.善行、利他行を積む
6.感性的な悩みをしない

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

港区をゆったり歩く。

了聞の馬形さんの紹介で、NPO法人あざ六プラス主催「5月の街歩き」イベントに参加した。

ホームページには、
「私たちは、広く一般市民の皆様に対して、麻布・六本木地域を中心とした港区全域の振興および活性化に関する事業、皆様の心身の健康づくりのための支援に関する事業を行い、地域の活性化、まちづくりの推進ならびに地域社会の保健の増進を図り、もっと広く公益に寄与することを目的と生まれたNPO法人でございます」とある。 https://www.aza6plus.net/

今回私が参加したイベントは、下記のようだ。

「慶應義塾大学キャンパスツアーと変わりゆく三田小山町をぶら〜り」

重要文化財の「三田演説館」「図書館旧館」など、近現代の大学建築をじっくり見学。
その後、再開発中の三田小山町へ
遅めのランチは、麻布十番で中華。

日時:5月20日(土)11時〜
集合場所:JR田町駅西口 みずほ銀行前
参加費:4,500円(ランチ、資料、保険)

NPO法人代表の高柳由紀子さんは、この度「港区観光大使」に任命された。
ザックバランで、私とは馬が合う気性の方とお見受けした。

私は「ひとごと」で生きている。誰とでもザックバランになることができると言ってもそれは程度の問題だ。

七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず(論語)
その意味は「70歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準を外れるようなことがない」と言うことだ。

70歳(古稀、従心)にもなると、誰とでもザックバランと言うことにはならない。凡人の私であっても、それなりに経験を積んできたゆえに、その経験から多くのことを学んできた。ゆえに、人との距離感の取り方は私なりに練れてきたように思う。

70歳からは、「誰とでもザックバラン」から「誰とでも自然体で無理をしない。下らない忖度をしないで、世のため人のために生きる」人生を送りたいと思う。

「類は友を呼ぶ」
馬が合うザックバランな人に対しては、こちらも自然体で接することができる。できればそのような人たちとたくさんお付き合いをして人生を送りたいものだ。

港区に住んでいてもほとんど港区のことは知らないし、地域に関わる活動はしていない。
これからの第二生は、私のビジネス&ボランティアをより有意義にするためにも、土日にはこのようなイベントに参加することも心身の健康にはよいことだろう。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

「天風哲学」を血肉にする後半生

第二の人生を生きる。ゼロからの人生だが、ゼロではない。実際のところ、私はまだ死んでいないからだ。擬似的に葬式をしたので、私の命は切れてはいない。だから実際のところ、第一生の雑念は消したようで消えてはいない。

ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と喝破したが、愚者である自分は「生きた70年の経験」からしか学んではいないのだ。歴史から学ぶことによって少しずつでも賢者の入り口に辿り着きたい。そのため読書は欠かすことができない時間だ。

中村天風師の『天風哲学』を紐解く。何度も何度も読み返す。それは頭で分かったつもりでも、その時腹落ちしていると思っていても、何か事が起こると「怒り」や「恐れ」や「悲しみ」が心の片隅から心全体に染み出してくることを実感するからだ。 「修行が足りない」と言うことだろう。

山本五十六は言っている。

苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう

不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう

これらをじっとこらえていくのが男の修行である

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、
ほめてやらねば、人は動かじ

話し合い、耳を傾け、承認し、
任せてやらねば、人は育たず

やっている、姿を感謝で見守って、
信頼せねば、人は実らず

そう言えば、山本五十六は天風門下の一人だった。

これからの私の第二生は、天風哲学を少しずつでも血肉にする半生にしたいものだ。

怒らない
恐れない
悲しまない

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

仕事のさなかに倒れ、最も望ましい終結を迎える「人生の 白秋」を生きる。

吉田松陰が死を目前にして書き留めた「留魂録」には、人間の一生を四季に準えている一節がある。

人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。
人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。

では、私の人生の四季は如何なるものかと考える。

おかげさまと言うべきか、私は30歳で生を閉じた松陰の2倍を遥かに超える人生を生きている。そして、人生100年と呼ばれる時代に生きて、120歳までの人生を描いている。
現実問題、120歳まで生きて、ただ生き長らえる人生であれば生まれてきた甲斐がない。やはり、生涯現役の人生が理想だ。

まずは10年、80歳まで疾ることだ。それも、無理せず、自然体で、人のために生きる。
そして、10年を区切りとして、90歳、100歳の現役人生を、描き、生きることだ。それが、120歳まで続けばそれもよし。これは天のみぞ知ることだ。生きることは目的ではない。手段にしか過ぎない。何かを成すために生きるのだ。

暗闇で生を享け、玄冬〜青春〜朱夏の70年を生きてきた。そして、その第一生を閉じて、新たな第二の人生の「白秋」「実りの秋」を生きる。

昨夕、FloraのアンナCEOと髙田COOと三人で、打ち合わせの時間を持った。そして、アンナと初めて電話で話した事務所の2階の居酒屋(ひごの屋)で会食をした。
私にとって、これは第二生のキックオフとも言える記念すべき時間だった。

私の第二生は昨年6月4日から始まったが、大空に飛翔するには1年の助走期間を要したようだ。第二生にも春夏秋冬ならぬ冬春夏秋がある。
しかし、第二生の季節は、第一生の下駄を履いていることもあって、冬を過ぎれば春夏を飛ばして秋になる。1年の助走期間を過ぎて迎えた「秋」は、春夏をミックスした「実りの秋」になる。

OUEN塾リーダーOB ・OGたちと同年代の二人は私の第二生のベストパートナーだ。
老若男女、手を携えて、それぞれの夢に向かって疾る。同じ夢ではないが同じ夢だ。それぞれが対等で、それぞれの役割を全うすることで、その夢は近づいてくる。

ヒルティは言っている。
「仕事のさなかに倒れること、これこそ正常な老人の正しい経過であり、およそ人生の最も望ましい終結である」と。

人生の白秋に、その時はいつかは知らず、「人生の最も望ましい終結」を迎えたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)