人間との付き合い

今回の生前葬&出陣式や年末のOUEN望年会等、私は人に集まってもらうのが好きだ。人間大好きということだろう。

もう10年前のことになるだろうか。ある新聞に「人脈」についてコメントがあり、「人脈づくりには鉄則がある」と書いてあった。

[人脈づくりの鉄則]
1.最初から見返りを求めない
2.自分が魅力ある人間になる
3.自分から情報発信する
4.礼儀やマナーを大切にする
5.こまめに連絡をする
6.オントオフを分けない
7.聞き上手になる
8.どんな人にも敬意を払う

この記事がストンと胸に落ちて、それからはこの鉄則を守ろうと絶えず意識している。そして、この8つの鉄則のベースには、何があっても「人間好き」ということがある。

私は超お人好しのところがあって、人に裏切られることが頻繁にあった。「あった」と過去形にしたいのだが、持って生まれた性格は変わり様がないから、70年という経験を積んで少しは泥沼から顔を出したところではあるが、なかなか合格点というところまでには届いていない。
また、騙されると言うことではないが、こちらの思いと相手の思いがちょっとしたことからずれてしまって、関係が縁遠くなってしまうことも間々ある。少しお利口になったので、喧嘩別れのような跡を引くようなことはなくなったが、これも私が相手に近づき過ぎたせいなのだろうと思う。 兎に角、人間好きなせいで良くも悪くもいろいろなことに出くわすのだ。

私は一匹狼(ある人は、私を狼ではなくパンダと言って「人寄せパンダ」だと言う)ではあるが、人好き・人の世話焼きのところがあり、いろいろな「緩やかな組織」に属している。それは主役だったり脇役だったりさまざまだが、「人間関係で勉強したな」と思うのはやはり今回の生前葬&出陣式のような、私が主役のときだ。

メールや電話でのやり取りのちょっとしたことで、相手との距離感が分かる時がある。相手の私に対する距離感だ。プライベートのこともありビジネスのこともある。そして少しずつ人間が分かってきて私は成長していくのだと実感する。私が主役のイベントは私の成長のリトマス紙のようなものだ。

そして、お世話になった人たちには何とか恩返しをしようと思う。半沢直樹ではないが、倍返し、3倍返しをしたいと思う。
いずれ、そのお返しはすぐではなくても1年後、5年後、10年後、何十年後、死後であっても孫子の代になるかもしれないが、必ず自分に返ってくるものだ。 「因果応報」「善因善果」「悪因悪果」は宇宙の法則なのだ。

そして、「虫の目」「鳥の目」「魚の目」を使い分けて、これからの人生を送っていきたいと思う。

小林 博重

「忙中閑あり」の一日

「忙中閑あり」
昨日は、全く何もアポが入っていない一日だった。土日でも何か予定が入っているのだが、全く入っていない日は珍しい。
と言っても、そんな日は事務所で雑用なりしているし、スマホ片手に2時間ウォーキングを楽しみながら、何か気がついたことがあったら即電話をかけている。そのことを思えば、私は年中無休の仕事人間ではある。仕事の合間に余暇を楽しむというところだろう。
私にはこれが当たり前になっているので、武田鉄矢さんの「母に捧げるバラード」ではないが、遊びたいとか休みたいとか全くそんなことは思わない。それで全くストレスがない。だから長続きする。死ぬまでそうありたいと思う。そのためにも健康には一層留意しなければならないと思っている。

午前はデスクワークと電話セールス、午後は1時半から4時までのウォーキング。昨日は渋谷〜明治神宮〜新宿コースだった。17千歩強。ちょっと歩数は多いが、全く無理はしていない。ウォーキングを楽しんでいる。

暇に任せて、デスクの上や引き出しの中の整理をした。こんな日でないと年末年始くらいしか細かいところの掃除はしない。

全ての身の回りに起こることは意味がある。天の采配だ。そう思って生きていると、全てがいいことだらけで精神衛生上実に好ましい。 何事も考え方次第で幸せになったり不幸に思ったりするものだ。物事を表から見るのと裏から見るのと、同じものを見ても大違いのことは頻繁にある。 全て前向きに、全て天が自分のことを思ってのことだと思えば、全ては磨き砂になる。幸せは思い方次第なのだ。

出陣式での「私のご挨拶」について、A5の小冊子にしてご出席者の皆さんにお配りしようと思う。その最終チェックをした。

「挨拶とご挨拶」
人さまの挨拶は「ご挨拶」と言う。この「ご」は尊敬語であり、納得できる。
ところで、自分がする挨拶に「ご」を付けるのはどうしてだろう。
御社・弊社と同じで、自分のする挨拶に「ご」を付けるのは、自社を御社と言うようなものでおかしくはないか。

ネットで調べてみると、人さまの挨拶に「ご」を付けるのは尊敬語で、自分の挨拶は謙譲語の「ご」を付けるのが正しいのだとか。
同じ「ご」でも尊敬語だったり謙譲語だったり。日本語は難しい。

こんなこともいい勉強だ。
日々、いい勉強をさせていただいている。

小林 博重

伯耆富士・大山と松江の旅

日帰りの松江出張は味気ないものと思っていたが、さにあらず。初めての松江への旅と思えば心はワクワクする。
岡山から出雲市行きのJR伯備線「特急やくも」は中国山地を縦断する岡山〜鳥取〜島根を走る特急。私のふるさとのJR七尾線を彷彿とさせる田園列車だ。 新幹線の乗客はほぼ満員だったが、やくもは1両に一桁。
車窓の緑はまさに5月の「新緑の候」だ。東京青山ではお目にかかれない癒しを享受した。

米子に近づくとJRも乙なことをするものだ。車掌さんがアナウンスで、車窓の右後ろに見える「伯耆富士・大山」の解説をする。
標高1729mの中国地方の最高峰。地方には富士と名のつく山は数多くあるが、私がこの目で見たのは、北海道の羊蹄山(蝦夷富士)と利尻島の利尻富士とこの大山(伯耆富士)だ。

やはり富士は日本の象徴だ。「富士山」の童謡を口遊む。

あたまをくものうえにだし
しほうのやまをみおろして
かみなりさまをしたにきく
ふじはにっぽんいちのやま

松江赤十字病院での打ち合わせは先方から事務部長以下3名が出て来られて、初対面にも関わらず1時間に亙る充実したものになった。 病院の近くが松江城だと言うので、レンタカーで城の周りを走って米子空港に行く。
城をぐるっと囲んでいるお堀に何艘か遊覧船がゆっくり漂っている。「あぁ、これが松江なんだな」と、旅が目的で松江に来たちょっとした旅気分を味わう。この堀は宍道湖に通じているのだろう。 米子空港でお土産に「宍道湖のしじみ」を買って帰って、早速夕食に「宍道湖のしじみ」を堪能した。
妻は「同じものをネットでも売っている。身体にもいい」と言って、早速”宍道湖のしじみ”を注文していた。

米子からANAで羽田まで1時間半弱。富士のご本家「駿河の富士山」を飛行機の車窓から眺めながら、松江の一日の旅を無事終えることができた。

小林 博重

特急やくもの車窓から伯耆富士「大山」を撮る。

生前葬&出陣式前のビジネスマッチング

生前葬&出陣式の最終案内をメールして、ご都合が悪くなった方からの欠席の連絡もいただき、ほぼ出席者は固まった。式次第や挨拶文も決定し、あとは細かい運用だけだ。

生前葬&出陣式は、まさに私の一世一代の大イベントだ。
これからのOUEN塾、OUEN望年会、OUEN Companyのビジネスマッチング、コラボレーションサポートは、この生前葬&出陣式のベースがあってこその延長線なのだ。 そして、このイベントにご臨席いただく皆さん方には、プライベート・ビジネス両面において、これからも長いお付き合いをお願いしたいと思う。

人間はちょっとしたことで喜んだり、意気に感じてその人に尽くそうとしたりするものだ。そして、そのちょっとしたことを分かる人か否かで、付き合いの距離感を決めるものだ。少なくとも私はそうだ。私は、そんな感性を持った人と長く自然体でお付き合いをしようと思う。

昨日は3件のビジネスマッチングをセッティングした。みんな、生前葬&出陣式にご出席いただく方々だ。皆さんに出席者リストと座席表をお送りしたこともあって、事前にこの人を紹介してほしいとお願いされ、セッティングしたものだ。出陣式当日に初対面というより、その方がビジネスはスムーズに展開するだろうとの想いがある。 私の出陣式はそんなビジネスマッチングの場でもある。

今日は松江へ日帰り出張をする。山陰地方はまるで陸の孤島のようだ。
安田信託銀行神戸支店に勤務していた時、金融担当だったので、仕事で但馬や鳥取にはよく出かけたが、島根県や松江市には行ったことがない。今回が初めてだ。ふるさとの能登へ行くよりずっと遠い感覚がある。

東京7:30発の新幹線のぞみで岡山まで、岡山から特急やくもで松江へ。松江着13:40分だ。6時間強の長旅になる。
松江日赤病院を訪問し、米子空港から羽田へ。飛行機は1時間半のフライトだ。
松江から米子空港までレンタカーで送ってもらうので帰りは飛行機にしたが、そうでなければ6時間かけてJRで帰る。米子空港と松江はあまり交通の便がよろしくない。

「ゆったりと老後は旅行でも」と言う価値観は私にはないので、なかなか島根県には足は向かない。いつ観光で訪れることがあるだろうか、ちょっと寂しい気もする。

小林 博重

老成した老人が日本を元気にする。

月に一回、エビサン整骨院(八丁堀)に通っている。70歳という年齢でもあるし、今まで以上に健康には留意しなければならないと思うからだ。 整骨院のほか、近所のかかりつけ医の藤田クリニックと新宿のサンデンタルクリニックにも月に一回以上通院している。
そのほか、人間ドックと健康保険組合の定期健診はそれぞれ年1回。人間ドックのほうが検査項目は多いがほぼ同様な検査なので、半年毎に交互に受診している。健康食品を摂ることも多くなってきた。 若い時は暴飲暴食、勝手気儘だったが、今はこの点では優等生だ。お酒もほとんど特別な時以外は飲まない。
先週金曜日も西櫻亭で裕美ちゃんと夕食を共にしたが、ちょっと一杯くらいと言っても裕美ちゃんがダメだと言う。妻のほかにチェックしてくれる人がいる。 「あと半世紀、生涯現役」と言っている以上、人に言われなくてもしっかり自制しようと自分に言い聞かせなければならない。

八丁堀には徒歩で1時間20分。11千歩。外苑前→赤坂見附→虎ノ門→桜田門(皇居)→京橋→八丁堀。
お日さまが出ていたので、野球帽を被って出かけた。帰りもウォーキングと思ったが、左脚のくるぶしにちょっと違和感があったので、日本橋まで歩いて地下鉄で帰った。今日の午前に藤田クリニックで診てもらうことにしよう。長続きしてなんぼなのだから、とにかく無理はしないことだ。健康第一、そうでないとやりたいことは何もできない。

エビサン整骨院では、いつも頭から足まで約1時間のマッサージをしていただく。
海老原さんはマッサージして、身体の何処に支障があるかを指摘してくれる。
昨日も「最近、デスクワークが多いんじゃないですか。姿勢が前屈みになっているのではないですか。言葉は優しくても姿勢は堂々としていたほうがいいですよ」とアドバイスを受けた。 ご指摘のように最近は生前葬&出陣式の準備の関係で、どうしてもデスクワークが多くなっていた。それが身体の見えないところに出ているのか。身体は正直だ。

マッサージしている1時間の間、海老原さんといろいろな話をする。海老原さんは「小林さん、70歳にもなってどうしてそんなに人生前向きになれるんですか。どうして生前葬をしようと思ったんですか」と聞く。
どうしてだろう。私も考えながら話す。「一般的に生前葬は、元気な内にお世話になった人たちに集まってもらってお礼を言うイベントだ。しかし、パッと明るくなるものではない。 私は、それでは元気がでない、日本が元気にならないと思って、第二の生のスタートとしての出陣式をセットしたものだ。
人生のリセットは死んで生まれ変わることでないとできないと思った。ただ、長生きするだけじゃ、老人は老人のままだ。
全国の老人がみな、成長する老人を目指して生前葬&出陣式をすることになれば日本は元気になるんじゃないか」と言う。
海老原さんは「まるで日本大改造ですね。超高齢化社会の日本の復興は老人にかかっていますね。気持ちが変わるだけで、人間は元気にもなれば病気にもなるんですね」

私もそう思う。気持ちが元気をつくる。人生も日本も気持ち次第でどうにでもなるのだ。

小林 博重

究極の利己主義は「利他の心」に通じる。

昨日、漸く「出陣式のご挨拶」の原稿が完成した。草稿はGW中に書き上げたので、原稿に至るまで2週間以上かかったことになる。 何度推敲しただろう。毎朝、時には日中に草稿に目を通して気がついたところを追加修正していたから20回以上推敲しただろうか。その度に、必ず修正が入る。 加えて、サポートいただいている方々にも草稿をメールして読んでいただくのだが、ここを修正したほうがいいのではないかとアドバイスをいただくこともある。 いつも修正して完璧と思っているのだが、見直すと必ず「てにをは」から「起承転結」まで修正が入るのだ。まるで私の来し方70年の人生のようだ。 そして漸く、これで完璧というところまで来た。私の行く末の人生もこうありたいものだと思う。

挨拶が原稿のレベルになってホッとしたのか、午後4時に帰宅し、珍しく長風呂に浸かり、スマホで昭和歌謡にたっぷり聴き入った。
私が生まれた昭和20年代後半から昭和60年代前半まで、私の人生の玄冬時代から青春時代前半までの歌謡曲だ。ランダムに流れてくるが、ほとんど覚えている。若い時に流行った歌はよく覚えている。それだけ多情多感だったのだろう。

出陣式の挨拶を考えていて知ったのだが、古代中国の五行思想の「人生の四季」はなかなか奥深いと思う。
それは、人生は春夏秋冬の青い春から始まるのではなく、黒い冬から始まるのだということだ。ついこの前までは当然のことながら、人生・春夏秋冬は「青い春・青春」から始まると思っていたのだ。 自分自身の人生を考えると、五行思想は確かにその通りだと納得する。

この世に生を享けた時は、まだ目が見えずこの世は真っ暗闇だ。それが少しずつ周りが見えてきて、幼稚園〜小中高〜大学と進んで、まだまだ世間のことは分かるところまではいかないのだが、暗中模索の中で朧げながらも光明が見えてくるのだ。 一日の始まりの0時は真夜中で真っ暗。それから、未明〜早暁〜日の出となる。それが人生の玄冬だろう。大学入学までの二十歳前までだ。

大学から社会人へ。社会人前半までが、人生の青春ということか。まだまだ青二才の甘ちゃんだ。人生分かったようで分かっていない。心意気だけで生きている。やはり、人生の辛酸を舐めないと人間は成長しない。甘ちゃんのまま人生を終える人は沢山いるのではないか。
私も会社で順風満帆の人生を送っていたとしたら、きっとずっと甘ちゃんのままの人生であり、この歳にもなると悠々自適な老後を考えるばかりの詰まらない人生を送る羽目に陥っていたのではないかと思うとゾッとする。

そして、45歳からの疾風怒濤・七転八倒の25年の人生の朱夏があって、今の私がいる。
長い人生の内に、いつかは苦労の二文字を経験しないと人間は一人前にはなれないのだろう。
私の場合は、朱夏の25年が私の「生きる哲学(応援哲学)」を確固としたものにしてくれた。
水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」の「苦労見山の時鳥」だ。苦労を経てこそ、時鳥は本物の時鳥になる。

アッという間の70年だった。昭和歌謡を聴きながら、玄冬〜青春〜朱夏の人生が走馬灯のように頭を駆け巡る。
これからが、私の人生の白秋だ。白秋は第二の生。私はそれを50年と想定しているが、どうなることやら、天のみぞ知ることだ。
せいぜい健康に留意して、世のため人のために尽くす人生を送ろうと思う。それが私の幸せな人生なのだ。私のための人生は、人さまのための人生だ。究極の利己は利他に最も近い。

これからは自分のために生きる人生を送るのだ。「世のため人のため」は「自分のため」なのだから。

小林 博重

戒名に恥じない生き方をする。

早朝に生前葬と出陣式のご案内(最終)をご出席者にメールでお送りした。
イベントまであと2週間あまり。最終の出席人数は、生前葬は45名、出陣式は137名になった。加えて、12〜13名の方々にイベントをサポートいただくので、併せて150名になる。

このイベントは私の第二の生のキックオフになるので、何としても開催したかった。おかげさまで、今はコロナが収まってくれているので何とか開催できる。ホッとしている。

今までのOUEN塾やOUEN望年会にしろ、今回のイベントにしろ、私独りでは何もできない。皆さんのご協力があってこそ開催できる。今回は、私個人の70歳の古稀祝いのようなものだ。多くの方々にご協力いただいて、つくづく私は幸せ者だと思う。 感謝の心を忘れず、謙虚・謙虚で生きることだ。「奢れる平家は久しからず」

改めて、稲盛和夫さんの「6つの精進」と東大応援部の「3S-spirits」を考える。そして、精神に深く刻み込む。
同じことを、これでもかこれでもかと、何度も何度も繰り返す。そうした毎日の繰り返しが血肉になり、人間が磨かれるのだ。
考えるだけではなく行動することで身につくことを自覚する。頭で分かっていても行動を伴わないと意味がない。「男は黙ってサッポロビール」から「有言実行」で、人間を磨くのだ。これからの第二の生は、人前で言ったことをプレッシャーにして実績を積み上げることだ。

今日は午後から瑞華院了聞の福井住職にお会いして、私の戒名およびその戒名の由来をお聞きする。人は親が名前を付けてくれる。戒名も一般的には死後に与えられるものだが、生前葬では生きたまま戒名を授けていただく。そのため、私の第二生への想いを伝え、それを反映させて、私が確認することができる。

そして、第二の生は、その戒名で生きていくことになる。小林博重という私の名は俗名になる。
そんなことで、だんだん仏の世界の入り口に立っている気分になってきた。
戒名に恥じない生き方をしなければならないというプレッシャーがある。私は、それを意識して生きるくらいがちょうどいい。

小林 博重
生前葬&出陣式のご案内.pdf

従心の心をベースに、青春の心意気を持って生きる。

昨夜は21時に床に就いたのだが、今朝は2時半頃目覚めてから、目が冴えて寝つけない。こんな時は無理に寝ようとせず、事務所に出向いて仕事をするなり本を読むなり、身体に逆らうことなく過ごすに限る。 ということで、3時過ぎに事務所に着き、お茶を淹れてパソコンを立ち上げた。メールのチェックをして、朝の初仕事はこの「OUEN blog」を書くことから始める。

6月4日の生前葬&出陣式では、第二の生の誕生日祝いとしての出陣式で、私はご出席者の方々にご挨拶をする。
生きてきた70年の来し方、これからの半世紀の行く末に想いを致す。
ご挨拶は私にとって、第二の生の「生き方宣言」なのだ。ありがたい機会を与えていただいたと深く感謝するものだ。

論語・為政・第二・四
子曰、吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。

子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず。

先生曰く、
私は十五歳で学問に志した。三十歳で自立した。四十歳で惑わなくなった。五十歳で天命を自覚した。六十歳で人の話を素直に聞けるようになった。七十歳で思うままに行動しても行き過ぎることがなくなった。

金沢大学附属高校は私が生徒の頃は1学年150人(3クラス)のこじんまりした高校だ(今は40人クラスで1学年は120人)。夏には全校生徒で校庭でファイヤーストームをしてみんなで旧制寮歌を高歌放吟した。それが原因で、名だたる旧制高校寮歌は私の愛唱歌になった。 そんなことで、同じ応援団でも東京六大学よりも旧七帝大に親近感を覚えるのだ。
北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大の国立七大学は多かれ少なかれ旧制高校の流れを引き継ぎバンカラの雰囲気がある。東京の第一高校は天下国家を論じるが、京都の第三高校は自由に生きるロマンをこよなく愛する。私はどちらかと言えば、そんな旧制第三高校に憧れた。そして京都大学を目指そうと真剣に考えたこともある(しかし、祖父が亡くなる前に「東大に入ってお国のために尽くせ」との遺言のような一言で東大に進むことになった)。

金大附属高校は、家族的な雰囲気のある高校と言うこともあり、先生方は皆ユニークで個性的な方が多かった。
古文の高瀬先生は、よく中国文学者の吉川幸次郎先生のお話しをされて、論語についても大学受験のためということではなく、その本質を熱く語る方だった。後から考えると、あの授業はまるで大学の教養課程の授業を受けているかのようだった。 その一節が、上記の論語為政篇だ。

高校時代は大学受験の前だから、15歳は学に志す志学の歳というのはその通りと思っていたが、その他の而立、不惑、知命、耳順、従心はあまりピンと来ていなかった。それもそうだ。高校生時代では志学以外は全て遠く行く末の歳だから致し方ない。 しかし、70歳の今となってみると、全ては実感として理解できる。その中でも70歳の「従心」はまさにその通りだと胸にストンと落ちる。年齢は嘘を付かない。

第二の生は、従心の心「心の欲する所に従へども矩を踰えず」(自分がしたいと思うことをやっても人の道を踏み外すことはなくなった)をベースにして、青春の心意気を持って生きていきたいと思う。

小林 博重

私の応援精神

私の人生のモットーは『敬天愛人』と『応援人生』である。

『敬天愛人』は西郷隆盛が愛した言葉であり、西郷さんと同郷の稲盛和夫さんも座右の銘にされている。

敬天愛人
道は天然自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。
天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。
天は人も我も、同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て、人を愛するなり。

『応援人生』は、東大応援部の3S-spiritsを生き方の指針として、それ以降、私のモットーにしている言葉である。
『応援』とは何か、を追求し続けた18歳から70歳までの半世紀だった。

『応援』とは何か
『応援』は、その名の通り、「人の援けに応える」ことだ。

応援(援けに応える)→おうえん(OUEN)→おおえん→大円→○

応援は「○」だ。○はある一点から右に進んでも左に進んでも、その究極には2つは合流する。一般的には右に進む人と左に進む人はどんどん遠ざかってしまう。しかし、○は進めば進むほど離れていくが近づいているのだ。

矛盾は矛盾ではない。
私に言わせれば、利己と利他は、それぞれ極めれば同じ点に辿り着く。勿論、お互いが「心が清らか」という大前提があるが。

また、応援は「丸い球」である。オールラウンダーの人間はほとんどいない。普通人は、修行に修行を重ねてもキリストや釈迦や孔子のレベルには遠く及ばない凸凹の人間ではないか。 しかし、天は全ての人に、その人にしかない得手を与えているのだ。
その得手は潜在化していて、自分の得手が何か気付くには自分を磨き続けることでしかなかなか顕在化しないのだ。
自分が楽しいと思ったこと、抵抗なくできることを一所懸命にすることで、得手は顕在化してくる。

しかし、大きな事を成すためには、その得手だけでは迂遠であることが多い。ではどうすればいいだろうか。
自分の不得手なところを得手としている人たちと強いパートナーシップを組むことだ。その大前提として、その相手が「心が清らか」であることが必須である。

すなわち、『応援』は「○」であり、「丸い球」なのだ。そして、応援の心は「心が清らか」なのだ。

『応援』とは、困っている人のために尽くすこと、援け(助け)に応えることだ。そのために丸い心になって、自分の不得手を得手としている、信頼できる人たちと強いパートナーシップを組むことなのだ。

私はこの応援精神を第一の生でようやく悟ることができた。そして、やっと今、その入り口に立っている。
そして、第二の生で成すことは、一層応援精神を磨き続け、心を高め続けること。テクニックをブラッシュアップしてコスパを高めることだ。 そして、夢を現実化させることだ。

小林 博重

日本創生のための生前葬&出陣式

生前葬&出陣式まで20日を切った。
生前葬は参列者45名、出陣式は生前葬の参列者に加え、出陣式からの出席者を入れて137名に固まった。それに企画・協力していただく方々を加えて、総勢150名のイベントになる。 皆さんへの最終案内は今週中にメールで発信する予定だ。

後は、20日に、戒名を授けていただく瑞華院了聞の福井住職にお目にかかり、その戒名の由来をお聞きする。戒名は、私の第二の生の名前であり、小林博重は俗名になる。 出陣式でのご挨拶において、ご出席者の皆さんの前で戒名に恥じない第二の生を送ることを誓うのだ。

ネットで「生前葬」を繰ってみた。
2〜3年前に何人かの芸能人が生前葬を催し、話題になったことがある。「私もやってみよう」と一般人にも普及すると思いきや、そうでもないらしい。
私の周りでも生前葬に参列したという話は聞いたことがない。それでだろうが、私が生前葬&出陣式の案内を出した時、皆さんはビックリされた。そして、出席するとご連絡をいただいても、多くの方から「ドレスコードはどうしたらいいのか」とか、香典や供花とか電報とか、どうしたらいいかと私に質問が飛んでくる。

生前葬は普通の告別式ではないし、出陣式は普通の誕生日祝いでもない。どうしたらいいの、ということだ。他の出席者の中に入って浮いてしまうのも辛いと思われるのだろう。「平服でお願いします」といっても、平服のイメージが湧かないのだ。誰も初めてのことだからだ。 ということで、最終案内にはもっと具体的にイメージできるような文言を書くことにした。

「生前葬が一般人にはおよそ無縁すぎるワケ」と題して、日本で話題になっても普及しない根本的理由を葬儀屋さんブロガーが言っている。

1.費用が嵩む
2.参加者を集めるのが難しい
3.生前葬を催す度胸がない

生前葬とは、「費用」や「集客」「度胸」の問題をクリアした人のみが行えるもの。生前葬を行うのが有名な芸能人に集中するのも納得できると、その葬儀屋さんブロガーは言っている。

余命いくばくもない人が、生前お世話になったお礼の目的で生前葬を催すのは一般的なのだろう。
しかし、超高齢化時代の生前葬はそれだけではないだろう。

人生100年時代だ。人生の5合目は50歳。還暦の60歳の心身は現役バリバリ。古稀の70歳(私の今の歳だが)でも、少しガタがきているところはあるが、メンテナンスしたらまだまだ行ける。 この50歳〜70歳はこれからの超高齢社会を支えていく人財になるべきではないか。「悠々自適な老後」を見据えて生きることは日本創生には繋がらない。

生前葬で第一の生を一旦閉じて、新たな第二の生を生きることが自らの幸せのためでもあるし、私たちが生きる日本のためでもあろう。

一般的なシルバービジネスは何と言おうと「来たるべき死に向かって生きる」ことをビジネスにしている。どうしても暗くなってしまうのだ。尻すぼみの人生をビジネスのネタにしているからだ。

老後ではなく老成の人生、尻すぼみではなく前向きな人生。そのために、生前葬で一旦死んで、即生き返り、第二の生として誕生し、新たな気持ちで世界に羽ばたいていく。人生秋の陣を張ることだ。

そんな老成する人間になる人がどんどん増えてくれば日本は明るくなり、世界をリードしていく日本になるのではないだろうか。

そんなことを思って、生前葬&出陣式を催したいと思う。

小林 博重