ここのところの私の日常は一般の同年代とは相当違うのではないか。
平常の日は、20時頃に眠気を催し床に就く。その前にリビングで横になってうつらうつらする時間が20〜30分はあるだろうか。その時間を入れると、19時半頃から眠りのモードに入っている。孫たちよりも早い。
そして、頻尿の気があるので夜中に何度か起きるが、直ぐに眠りに就く。
3時前に目覚めるともう眠気はどこかに行ってしまっている。寝足りた感もあり、そこでガバッと起きて徒歩2分の事務所に出掛けるのだ。
そんなことで、6時間は寝ているだろう。寝足りない時は、朝食を摂った後で自宅で30分くらい仮眠する。
そして、9時には爽やかな気分で1日をスタートさせている。
杜甫の詩の「人生七十古来稀なり」から、70歳は古稀(古希)と呼ばれている。
今でこそ、「人生100年時代」と言われて、百寿者は86,510人(2021年9月住民基本台帳)、その中で女性の百寿者は88%を占めているが、杜甫の時代は70歳まで長生きする者は極めて稀だった。
今は昔の8掛け、いや7掛けかもしれない。今の70歳は昔の50歳だ。まだまだ働き盛りとは思う。
しかし、やはり「無理はよそうぜからだに悪い」から70歳から、生まれ変わって「心機一転」、真逆の新しい人生を始めると思って生きたほうがいいと思う。
そんな意味から、杜甫の「人生古来稀なり」を現代に生かすべきだろう。70歳は二毛作人生の区切りの歳なのだ。
では、70歳からの人生を如何に生きるべきか。そのヒントは論語為政篇にある。
十有五にして学を志す
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う
七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず
「70歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準を外れることがない」ということだ。すなわち、70歳以降は「従心」の通り、達観した心で、世のため人のために尽くす仕上げの秋冬なのだ。
それを私流に解釈して、これからの第二生を生きていきたいと思う。
それは、人さまに迷惑をかけず、無理をしないで生きる。自分の天性をそのまま生かし(自然体で、人の機嫌を気にするような忖度をすることなく、私流で生きる)、人さまに喜ばれる「人のために」生きることだ。
人さまに心から「ありがとう」と言ってもらえることを、自分を飾ることなく実行する人生を生きることだ。
第一生は紆余曲折、七転八倒の人生だったが、真っ直ぐ生きてきた。
「不易流行」
変えなければならないこと、決して変えてはならないことを弁えることだ。
第一生で学んだ哲学を、第二生でも死守し、それをベースにして果敢に行動することだ。
「タイムイズマネー」
我が人生、いつどうなるやも知れず。道草をせず、コスパも考慮に入れて、信頼できるパートナーたちと手を取り合って行動する。
夢を追いかけ、実現させる。
ゼロからのスタートだが、ゼロからではない。
70歳とはそんな人生の大きな区切りの歳だと痛感している。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)