第三生としてのエンディング期

先週土曜日に受講した「終活概論」を受けて、昨年「生前葬&出陣式」を行なったことも踏まえ、改めて我が人生を考えた。

人の人生は人それぞれ、個別性がある。特に、私の場合はそれが強い。
人には自立期とエンディング期がある。ピンピンコロリは理想だが、それはある意味で自分勝手であり、家族や親しい人たちのことを全く考えていない自己中の極みだ。やはり、どんなエンディング期か分からないが、それなりのエンディング期を想定しておくことが人として生きてきた人間の務めではないかと思う。私は今までエンディング期を全く自分ごととして意識していなかった。

人生には「春夏秋冬」がある。今の私の季節は「秋」だ。
また、私は人生の区切りとして、昨年、生前葬&出陣式を行なった。
第一生に区切りをつけ、第二生をスタートさせたのだ。

その第一生にはまた、第一生の春夏秋冬があった。私の場合、その春夏秋冬は私の生まれてきた意味を追い求めてきた一生のような気がする。
東京大学時代までの青春(0〜22歳)、安田信託銀行時代の朱夏(23〜44歳)、稲盛和夫さんとの出会いを経ての新たな人生の白秋(45〜69歳)、生前葬を執り行おうとして第一生を締め括った玄冬(70歳)。そして、未完のまま、第一生を終えた。

第二生はその未完であった人生を結実させる「実りの秋」にしたい。第一生の白秋を極める「秋」なのだ。
その始まりは70歳なのだが、その終わりは天のみぞ知る。それは50年後かも知れず、30年後かも知れず。はたまた、明日かも知れず。

そして、エンディング期である第三生が続く。自分の意思で生きることができなくなる第三生だ。
私に人を思い遣る「恕の心」があるのなら、第三生のエンディング期のために、今の第二生できちんと「終活」をすることが不可欠なのだ。

生を考えることは「死を真正面から見つめて生きる」ことである。心に生と死の両極端を併せ持つことで、幸せな人生を生きることができるのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)