「新老人」の勧め

投稿者:

GWの1日目(29日)は、朝方左脚のくるぶしに少し違和感があり、痛風の前触れではないかと少し心配したが、ガブガブと水を飲むことで何とか痛風は遠ざかっていったようだ。
どうしてもプリン体を含む食べ物が好きなのでこんなことになる。しかし、好きな食べ物を食べないとストレスが溜まる。やはり絶えず有意注意をすることだ。バランス良い食事を心掛けることだ。 これは痛風に限らない。歳を取ると全てのことは「有意注意」が基本だと思う。

そんなことで、連休初日は明治神宮コースでウォーキングを楽しんだ。外苑前から青山通り〜明治通り〜明治神宮〜新宿(伊勢丹)〜新宿通り〜四ツ谷〜外苑東通り〜青山。10km、2時間。

昨日の30日は雨模様の予報だったのでウォーキングはしなかったが、ほとんど雨と言う雨は降らず、一日中事務所で読書をした。

何年か前に買って積ん読していた「人間の器量」(福田和也著、新潮新書)と、この前、日本橋丸善で買った「シン・養生論」(五木寛之著、幻冬舎新書)を読んだ。

【人間の器量】
なぜ日本人はかくも小粒になったのか。
能力があるか、ないか。
いい人か、悪い奴か。
その程度のことで、もて囃されたり、貶められたりする。
人物観の平板さが殺すのは、人材だけではない。
人を単純に切ったり、持ち上げたりする人は、自分に対しても、そういう見方しかできなくなってしまう。
自らの心と資質は、測りがたい。
善悪、良否の敷居をこえてしまうような人間観、その物差しとして器がある。

【シン・養生論】
私は五木寛之さんの著作を好んで読む。ちょっと暗いところがあるが、それが私には似合わないわけではない。私も本当のところ、そんなところを持っている。 五木さんの著作に私は人生の深い襞を感じる。人生哲学だ。
稲盛さんと同い年で、もう10年以上前だったか、お二人の対談をお聴きしたことがある。それから私は五木寛之ファンになった。

新人類ならぬ新老人の勧めに、「してやったり」と膝を打った。
五木さんが言う新老人とは、「これまでの老人像とは、価値観や感性が全く異なり、同じ人間とは思われない新世代の老人たち」のことだ。

ご隠居さんでもなければ、単なる扶養家族でもない。子どもや孫たちの世話になるのではなく、貧しくとも経済的にも、生活的にも自立した高齢者だ。 受ける権利のある国の保護は、可能な限り活用しつつ自立した生活を試みる。
病気やその他の個人的事情は、当然それに応じた配慮が必要だが、理想をいえば「3つのK」を何とか確立する。
「3つのK」とは、「健康」(KARADA)「経済」(KANE)「孤独」(KOKORO)。

「人生2回説」
50歳になったら、そこで一度、人生をリセットする。名前を変えて新しくこの世に誕生したことにすればよい。そこからもう一つ別な人生をスタートする。要するに、前半と後半をガラリと異なった人生にする。

私はそのリセットを70歳でした。ちょっと遅すぎたが、そうであれば人生を100年ではなく、120歳までに延長すればいい。
私は、第一生の名前は「小林博重」だが、第二生のそれは「不動院重陽博愛居士」になった。
第一生とは全く違う第二生を生きる。別の人生をスタートする。

昨年6月に生前葬&出陣式を行なって、来月で満1年が経つ。1年の充電期間を経て、今、漸く、スタート台に立つ。
どんな第二生を送るのか、ガラッと違ったものにしたい。朧げながら見えてきているが、それをもっと総天然色にすることだ。

第二の生を生きる。実に楽しみだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です