明鏡止水の鏡を持った人たちとのビジネスをする。

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リハビリとマッサージの効果が出てきたのか。そして、五十肩は必ず治る。もうそろそろ全快軌道に乗っているのか、気分は頗る快適だ。 身心一如、身体と心は一体なのだと身を以って痛感する。

妻から、手元に不祝儀袋の「御仏前」はあるが「御霊前」がない、事務所にないかと電話があった。そんなことで、『仏と霊(魂)』を考える。 中村天風翁は「人間の本体は気体である」と言う。気体とは霊魂のことだ。
私の霊魂は広い宇宙に彷徨っている。それが心を伴い、肉体となって目に見える形で、今、この地球上に存在している。すなわち、あくまでも心身は霊魂という気体の何事か成し遂げるための道具なのだ。そのことは朧げながら腹落ちするようになってきた。
人間は寿命を全うして、元の霊魂に帰る。私はまだこの世にやり残したことがあるから、もう少し、ちょっと欲張りかもしれないが、やっと第二生で生まれ変わったばかりだから、そのミッションを完遂するところまでとは言わない、見果てぬ夢が朧げながら確認できるところまで心身の形で地球上にいさせてほしいと思うものだ。

人間は人間同士の「人間関係」で生きている。いや、生きさせていただいている。
そして、その人間関係は「合わせ鏡」のようなものだと思う。そのことを、私はこの数ヶ月で痛切に実感している。それは、第二生の『生き方スタイル』にちょっと右往左往したことからだ。

人間は突き詰めれば自分が一番大切だと思って生きている。それを否定して「無私であれ」というのは仏様ならぬ一般の人間には無理と言うものだ。

「利己」の心を持つのは当然と思ってそのことを卑下したり否定したりする必要はない。
ただ、その「利己」の最大化を極限まで追求することだ。どうしたら利己の最大化になるのかと。
それは相手のことを考えること、相手がどうしてほしいのかを考えることに尽きるのではないかと思う。
そして、「利己」と「利他」をアウフヘーベンさせる。それは人間の心が「合わせ鏡」だからだ。こちらが相手のことを考えて接すれば、相手も同じくこちらのことを考えて接してくれる。ただ、それには、その人が持っている鏡が歪んでいないことが前提である。その見極めは、年の功と生まれ持った「人の心を洞察する洞察力」に依る。

歪んでいない鏡を持った人たちと心の交流をして、ビジネスをする。
ビジネスをビジネスライクを超えた温かい人間の営みにアウフヘーベンさせる。そんなビジネスをしていきたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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