『動機善なりや、私心なかりしか』と言う稲盛フィロソフィーを反芻する。
大きな夢を描き、それを実現しようとするとき、「動機善なりや」ということを自らに問わなければなりません。自問自答して、自分の動機の善悪を判断するのです。
善とは、普遍的に良きことであり、普遍的とは誰から見てもそうだということです。自分の利益や都合、格好などというものでなく、自他ともにその動機が受け入れられるものでなければなりません。また、仕事を進めていく上では「私心なかりしか」という問いかけが必要です。自分の心、自己中心的な発想で仕事を進めていないかを点検しなければなりません。
動機が善であり、私心がなければ結果は問う必要はありません。必ず成功するのです。
山本五十六元帥は、じっとこらえてゆくのが「男の修行」と言ったが、その意味は、「じっとこらえて、熟慮に熟慮を重ねよ」ということだろう。そして熟慮の上で果敢に断行すること、『熟慮断行』だ。それが「できた人として」のあるべき姿なのではないか。
『動機善なりや、私心なかりしか』を今一度よく考えてみよう。
不動院重陽博愛居士(俗名 小林 博重)
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