ゼオライト河村会長のご冥福を心からお祈りする。

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福岡博多のゼオライト株式会社のオーナー会長、河村勝美さんが2月14日に帰らぬ人となった。享年79歳、未年。私より9歳お姉さんだった。
昨日(15日)、横浜青葉台の、母が入園している老人ホームに向かう途中、同社東京支店の佐藤部長から「会長が逝去された。とりあえずお知らせする」とショートメールをいただいた。 17日に通夜、18日に告別式だと言う。慌ただしい。

会長には私たち夫婦共々可愛がっていただいた。夫婦2人で、1泊2日、通夜・告別式とも参列する予定だ。

河村会長とは、知り合ってまだ1年半くらいしか経っていない短いお付き合いだ。それで、夫婦共々、会長とは、肝胆相照らす心の友、ソウルメイトだ。 琴線が触れ合うには時間の長短より、どれだけ心の深奥をお互いが曝け出すことをするか、それができれば全く時間の長さは必要はない。ソウルメイトとはそのようなものだ。

会長に初めてお会いしたのは一昨年の11月、ホテル日航福岡だった。
お会いする前に会長とはお電話でお話しをした。ウォーキングの最中に会長からお電話がかかってきた。仕事のお礼だ。丁度、防衛省前だった。それから市ヶ谷駅を過ぎて靖國神社まで話した。
初めての会話にも関わらず、ザックバランにお話しになる。私も同じようなものだ。社員への想い、会社への想い、等々。そのオープンで、温かい、人に対する想いをお聞きして、彼女のお人柄がひしひしと伝わってきた。同じ盛和塾の塾生でもあった。

それでも初対面は初対面だ。お目にかかった時、彼女は膝を出された。私も同様に膝を出してご挨拶をした。
ゼオライトと明治安田生命とMYパートナーズの面々が宴席に着いて、彼女はテーブルに、交換した名刺を並べられた。そこには私の名刺はない。
彼女は「団長の名刺がない。どこに行ったのだろう」と仰る。名刺交換はしていないのであるわけはない。まさに彼女のお人柄が現れている。お茶目で人好き、個性は強いが、琴線が触れ合うと全てをオープンにする。全くと言っていいほど私と瓜二つだ。

昨年6月の私の生前葬&出陣式のおりにはお病気は快方に向かっていらっしゃったようで、お食事も摂られ、お元気そうにお見受けしたが、付き添いがなければ足はふらついていらした。 それでも私へのサプライズプレゼント(「敬天愛人」の額と「日本創生」の2升5合(益々繁盛)の日本酒)の会長のご挨拶はお声に張りがあった。
私は「これから50年頑張ります」と申し上げると、会長は「私は20年は頑張るわ。その後のゼオライトをよろしくね。私も団長にあやかって、生前葬をやろうかしら」とお元気そうにお話しになっていた。

昨年11月の勤労感謝の日に、名誉会長の3回忌に、大濠公園のご自宅に妻とお伺いしたおりには、殆どお食事はお召し上がりにはならなかった。それでも、私のお願いを真摯にお聞きいただいた。そして、これからのゼオライトのことを私に話された。それが会長にお目にかかった最後だった。

今年の1月、福岡にお伺いしたおりは入院されていてお会いできなかった。妻からの「全快を祈念したお守り」をお届けしたが、その次の日の朝、会長からお電話があった。

「団長、ありがとうね。元気になるからね。息子たち(ゼオライトの役職員のこと)をよろしくね。ゼオライトをよろしくね」と。

私が「会長、ゼオライトのビジネスは成果が出るのに長くかかりますね。もっと早いと思っていたのですが」と申し上げると、会長は、
「そんなものですよ。2年や3年は当たり前。5年になることもザラにあります。ネバーギブアップ精神です。団長、諦めないでね。見捨てないでね。頼むよ。団長しかできないことがあるんです。ずっと、ゼオライトの応援団長をお願いします。団長はそれだけでいいんです。よろしくね。よろしくね」と。

1月22日の会長からのお電話が最後だった。
「団長、いい病院を紹介してよ。もう、この病院から出ることはできないのよ」

そして、それから3週間あまり。会長は天国に昇って行ってしまわれた。

「私は団長の一番のファンなの。団長をよろしくお願いしますね」
と仰っていたと妻は言っている。

こんな人がいるだろうか。
私は彼女の想いに応えなければならない。「人として」そのことをこれからの人生のミッションとして生きていこうと思う。

河村会長のご冥福を心からお祈りします。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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