フランスの哲学者であるパスカルは「人間は考える葦である」と言っている。
小学生か中学生の時だったか、買った本に挟んであった栞にこのパスカルの箴言が書いてあった。
「どうして人間を葦のような弱い植物にたとえたのだろう」と、とても違和感を持った。それでこの箴言を印象深く覚えている。
そして、古稀になって、ようやくその深い意味を実感を持って納得するようになった。半世紀以上の時間がかかった。
「人生50年」の信長の時代に生まれていなくて良かった。ありがたいことに、「人生100年時代」は人間を幸せにしてくれる。
パスカルが言わんとしたことは、人間は葦のように弱い存在だが、「考えること」「考えて、行動する」ことで、人間は強くなる、成長する動物だと言うことだろう。
人間以外の動物は、この「考える」ことをしない。本能のまま生きている。考えることこそ人間に与えられた偉大な力だ。
私は今までどれだけ「考える」ことをしてきただろうか。
私は運がいい人間であると思う。自分で言うのもなんだが、私は性格が素直であり、思ったまま、そのままで今まで生きてきたようなところがある。
多くの皆さんに可愛がっていただいて、ありがたいことに「人徳がある」と褒めていただいて、何とか生き長らえてきた。
それはたまたま本能で生きてきて、天から運がいい運命を授けていただいて、天真爛漫に生きてきたということだろう。
「沈思黙考」という言葉は私にはなかったように思う。
しかし、「できた人間」であろうと思い、そのため「じっとがまんをする」ことが不可欠と思うようになって、ようやく、一皮も二皮もむけてきたような気がする。
「じっとがまんをする」ことで、人間は「考える葦になる」のだ。
がまんをすることで、「何で我慢をしなければならないんだろう」と思う。そこでいろいろ考えるのだ。深く考えるのだ。沈思黙考するのだ。それで人間に深みや襞が増して、天性の運の良さに一段と磨きがかかるのだ。
山本五十六の言葉が身に沁みる。
苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹や立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが
男の修行である
古稀にしてようやく「男の修行」ができるようになった。
長生きはありがたい。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)