「テレビ70年」に想う。

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テレビが初めて放映されたのは今から70年前、昭和28年2月1日だとか。
私が生まれたのが昭和27年11月だから、生まれて3ヶ月経たずしてテレビ放送は始まったのだ。私の人生がそのままテレビの歴史である。

自宅に金沢の電器店からテレビが届いたのは、私が小学生になって間もなくではなかったか。それは東芝のテレビだった。
その当時、能登の田舎でテレビを買うのは珍しく、在所では私の家が最初だった。

大相撲の放映のおりは自宅は映画館さながらで自宅に入りきらず玄関で立ち見の人もいたくらいだ。プロ野球放映は巨人戦オンリーで、ナイターの時などは近所の野球好きの子どもたちが「ひろちゃん、野球観してくだいま(「観せてください」の能登弁)」と言って観にきたものだ。 『巨人、大鵬、卵焼き』がその時代の流行語だった。

プロレスは力道山がスターだった。祖母はプロレスファンだった。祖母が好んだ選手は力道山やジャイアント馬場やアントニオ猪木ではなく「ジャンボ鶴田」だった。
プロレス放映の時はテレビにかじりついて、鶴田と同じ動作をして「その調子、殴れ、投げ飛ばせ」と、女性とは思えない応援をしていた。私は、品がある祖母の想像もできない一面を見て、祖母にそんな闘争心があることに本当に驚いたものだ。

祖父とはよくNHKの大河ドラマを観た。
第1作は尾上松緑主演の幕末の大老「井伊直弼」を描いた『花の生涯』だ。共演の佐田啓二や淡島千景もよく覚えている。
第2作は『赤穂浪士』だ。赤穂藩老中の大石内蔵助を演じる長谷川一夫が浪士たちに呼びかける、魅力ある低音の「おのおのがた」やオープニングの音楽(芥川也寸志作曲)は今でもハミングすることができる。東京オリンピックの年だから私が小学6年生だ。そのインパクトは尋常ではなかったのだろう。
第3作の緒形拳主演の『太閤記』で、秀吉が百姓から太閤まで登り詰めた出世物語を知り、私もそうありたいと秀吉に憧れたものだ(それから60年近く経った。私が目指す理想は秀吉のような生き方ではなくなった。私の持てる能力もあるが、生きざまとして、私は全く違う価値観持って生きているからだ。それが私の「幸せな人生」だと負け惜しみではなく、そう思う)。

昭和30年代は日本が高度成長の前半、イケイケドンドン。それは日本が戦後の復興から雄々しく立ち上がり、自らの頑張りに自信を持って突き進んだ時代だった。それは素晴らしい時代だったと思う。しかし今の日本は「失われた30年」のトンネルの中にいる。そんな老いさらばえた昔日の青年は、もう自らと闘おうという迫力は持ち合わせていないのだろう。 それならば、一旦自らの生を閉じ新たに生まれ変わることで、往時のチャレンジ精神を復活させることが必要なのだ。
私の生前葬&出陣式はそのための儀式であったのだ。
その心根を、改めて強く心に留めようと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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