人間の幸せを追求する人が「できた人間」だ。

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「できる人間」とは「能力の高い人間」のことだろう。では、「できた人間」とはどういう人間だろうか。
私は「できた人間」とは、『相手の立場に立って、自分も相手も延いては周りの人全てが幸せになるにはどうしたらいいのかと考え、全ての人が傷つかず、幸せな気持ちになるように持っていく人間』ではないかと思う。

正しいと思うことをすることは、それで全ての人が幸せになるとは限らない。しかし、「人として正しいことは何か」と考え、それを貫くことが真の人間だ。 「人が幸せになること」と「人として正しいことをすること」の双方を満たしてこそ、「できた人間」と言われるのだろう。

私は44歳6ヶ月で20年勤めた銀行を中途退職した。銀行を辞めていなければ七転八倒する苦労を味わうこともなく、私の人生はごく普通のどこにでもある人生だったと思う。 なぜ辞めたのか。若気の至りで、自分の存念を貫くことだけを考ええ行動したのだ。

その結果、妻子に思いもかけない苦労をかけ、周りの人たちに助けていただきながら生きてきて今の私がある。
結果オーライの人生だが、やはり賢い人間は、「我も人も幸せにできる人間」なんだろうと今になって思う。
稲盛和夫さんが仰る”苦は楽の種、苦は磨き砂”はその通りなのだが、それは周りの人たちに迷惑をかけてまでも苦の中に飛び込むことを人に勧めることを私はできない。 人から人生相談を受けた時には、私の拙い体験を話すことで”苦は磨き砂”だったと言うことしかできない。

「できた人間」は「正しいと思うこと」をするにしても、相手の気持ちはどうだろうと熟慮して、それを行動に移す人のことだろう。話の持っていきようを熟慮するのだ。 国会論戦を見ていると、相手を非難することをしないと野党の役割が果たせないと思うのだろう。私に言わせればこれは芝居だ。民主主義は芝居なのだ。 「できた人間」はそれを自分の心でする。与党と野党の想いを如何にアウフヘーベンするかを心の中で熟慮するのだ。
私はそんな「できた人間」を目指したいと思う。

争い、諍いはないに越したことはない。今のウクライナ危機を見ても誰も幸せにはならないではないか。
民族とか歴史とか、政治家は思うところはあるだろうが、「人として」「人間の幸せ」に深く思いを致したら、あのような醜い戦争をすることは決してないのだ。 特に、政治家には、”できた人間”になることを望みたい。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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