魂と肉体の別離について

投稿者:

世の中は今日から少しずつ平常の活動に戻り始める。今日から出勤という人もいれば、明日からという人もいる。みんなが本格的に平常に戻るのは成人の日が過ぎた10日からか。
私のような小判鮫の人生を送っている者は、孤高を死守しながら、世間に染まることなく、世間に合わせるしかない。若山牧水の『白鳥はかなしからずや海の青、空の青にも染まず漂う」の心境か。

やはり、生きるということは魂と肉体が一体ということだが、それは切り離しができる別物だという
ことだ。
五十肩の痛みに耐えている自分を見てそう思う。これが生まれたばかりの赤子であればそんなことはこれっぽっちも思わないのだろうが、肉体は70歳の老体で、私は五十肩、そうでなくても同年代の輩(ともがら)も至るところガタが来ているだろう。まだ私の五十肩はちょっとの我慢だったり、時には痛みを忘れていることがあるのだから、ずっとましだ。

これに反して、魂(心)は中古(ちゅうぶる)になるということはない。感謝の心を持ち、毎日の反省をすることによって、少しずつ心は高まっていく。成長していく。決して衰えることがない。 その心に付き合う肉体といったら、騙し騙しして、心に寄り添うように離れないように生きていくことだ。肉体は不死身ではない。
心についていくことができなくなった時に心は肉体から離れて独り歩きするのだ。そして、これから生まれようとする受精卵に乗り移る。その時まで、せいぜい努力精進して心を高め続けることだ。

私は第二生を50年と想定しているが、何せ中古の肉体がどれほど持つかということに掛かるから、なかなか想定通りには問屋が卸さない。これからは、自分の肉体を慈愛することだ。自愛することだ。すなわち、自分が自分の身体を愛することで、魂と身体の別離の時を少しでも遅らせることだ。

プーチンもヒットラーもそれぞれの民族の繁栄のためにその先頭に立って戦っている、戦っていたのだろう。
民族を愛することは尊いことだが、その想いを、他を殺めることで果そうとする”人非人の思想”では決して自らの民族を幸せにはしない。 そんな人に対する慈しみも愛もない思想は全ての人類を不幸にするだけだ。いくらダイバーシティの時代だとはいってもそんな多様性は許されることではない。 正義の戦争などあるはずもないのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です