人間の成長とは、

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今日は大晦日だ。令和4年もあと1日を残すだけになった。
今年、私は11月で満70歳になった。古来稀なる古稀の歳だ。70歳と言えば、父が亡くなった歳でもある。29年前のことだ。父は私と同じ11月生まれだったから、父が亡くなった5月になると私は父と同じだけ生きたことになる。実に感慨深い。

私はそんな歳になってこれからが第二の人生だと公言しているのだ。
あと半世紀と言っているが、それは、そんな思いでミッションを果たしたいということであり、長生きすることが目的ではない。そして、あと半世紀生きることは現実的ではないし、もしそんなに生きたら、例えピンピンしていても家族が困ってしまうだろう。 孤高の人とは聞こえがいいが、人さまにご迷惑をかけてまで生きていることは私の本意ではない。適当なところで次の世に旅立つことが人のためになる。

人生70年生きてきて、馬齢を重ねてきたが、少しずつだが私は成長していると自負している。
中学高校時代に好きな女の子がいた。初恋だった。彼女は私のことを大事に育てられた”甘ちゃん”だと言っていた。彼女はご両親が物心ついた時に離婚していて、それで祖母に育てられたらしい。 そんな人からすれば、のほほんと祖父母に大切に育てられた私は”甘ちゃん“だったのだろう。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」と言われる。今でこそ、稲盛さんが仰る「苦労は、心を磨く磨き砂」と思うまでの気持ちになっているが、そんな若い時は、苦労を売ってくれる人が何処にいるか分からないし、誰もがしたくない苦労は買いたくもない。

私が70年間でどんなところが成長したのか考えた。思いつくまま。

①自分は運がいい人間だと心から思うことができるようになった。実際、幼少の頃もそうであったし、今はそのピークではないかと思っている。

②苦労と言ったら、人並みの苦労は、若気の至りで銀行を中途退職した44歳6ヶ月以降だろう。
七転八倒、紆余曲折の人生ではあったが、これが苦労というものか。世間に揉まれ揉まれて、一皮二皮剥けて、少しずつまともに世の中を見ることができてきた。何事も苦労をすることで人間ができてくる。

③”グッと我慢”が少しはできるようになった。44歳6ヶ月の若気の至りは結果オーライだが、あまりよろしくない。人さまにお勧めできることではない。

苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
これらをじっとこらえていくのが男の修行である
山本 五十六

真っ直ぐ、お人好しだけの人生では決して成功はしない。「人生終わりよければ全てよし」とはならないのだ。父を見ていてそう思う。親子だからそうなのだが、私は父とよく似たところがあって、真っ直ぐでお人好しだ。 父は終わりがいい人生ではなかった。私もそうなってしまう。それは宿命なのか。
いや、それは運命であって宿命ではない。そうであれば、善きことを思い、善きことをし続ければ、因果応報の原則で運命を変えることができる。 グッと我慢のアンガーマネジメントを実行することだ。人と争わないことだ。そして、全ての人さまと相応しい距離感を持ってお付き合いをすることだ。
一般的に、人の性は善でも、心は弱い”性弱”なものだと思う。そう思うと腹が立つのが抑えられる。性弱な心だから悪いこともする。人を騙すこともする。人を裏切ることもする。その人の性は善なのにだ。 だから、そんな人がいたらそんなものだ、かわいそうだと思えばグッと我慢もできる。その人との距離感を把握することができる。

④何事も前向きに考える。ネバーギブアップ、ネバーネバーネバーギブアップの精神を持って頑張ろうと思うようになった。

⑤稲盛和夫さんは「利他」「無私」を持つように仰るがなかなかできることではない。私のような凡人はこう考えるとスムーズに腹にストンと落ちる。
それは、利己を極めることで利他に近づくということだ。どうすれば自分は幸せな気持ちになるだろうか、それは人さまに喜んでもらうことをして「ありがとう」と言ってもらった時だ。それは利己であり、利他である。利己が利他になるように精進することだ。

⑥そんな生き方をしていると同じ思いを持った人たちが私の周りに集まってきてくださって、私に協力してくださる。「類は友を呼ぶ」諺だ。タモリの「友だちの友だちは皆友だち」ということだ。そして、同じ思いの友だちしか私の周りに来なくなる。
昔は、あとから考えたらとんでもない人だということが間々あったがそれは私の心に邪心があったからなのだ。その邪心に気付かないことは「思いが浅い」と言うことであって、それだけ人間ができていない、哲学を持って生きていないということなのだ。

⑦「男として」の拘りから、「人間として」に変わっていった。
私は男歌が好きだ。男の生きざまが現れている。しかし、これは人間として求められていることではないか。また、逆に女歌の「女として」の生き方も同様だ。全て「人間として」なのだ。 sexとしての男と女は、それは区別であり差別してはいけない。平等であるべきだ。
それぞれの特徴をフルに生かし協働することで幸せな社会ができていく。そのベースに「人間として」という確固とした人間哲学があることが大前提なのだ。

⑧ソクラテスの”汝自身を知れ”が幸せの原点ではないかと思う。それは”無知の知”だ。自分はこんな人間だ、これは得手だがこれは不得手、知らないことは素直に知らないと認めて、それを隠さないことだ。
勿論、知る努力は必要だが、コスパを高めようとしたら、素直な心で自分自身を知って、不得手なところをカヴァーしてくれるそれが得手な信頼できる人をパートナーにすることだ。そしてどんどんパートナーを増やしていく。それでオールラウンダーに対抗することだ。 21世紀は「大きいことはいいこと」ではない。小粒でもピリッと辛い山椒のような人、心清き人たちの集まりで、社会を成長させていくことだろう。

⑨本田宗一郎さんは「哲学のない人は経営をやることができない」と仰っている。人生は自らを生かす経営である。私には『応援哲学』とい私独自の哲学を確立しつつあると思っている。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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