有限の命を燃やす。

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22日、次男が日帰り出張で会社のイベントに出席するために大阪から上京した。イベントは四谷にあったので、久しぶりに親子水入らずで四谷三丁目のホテルWINGのレストランでランチを共にした。そして、皆んなで四谷笹寺に眠っている義父の墓参りをした。

おかげさまで子どもたちは実に仲が良く、頻繁にZOOMをしたり、グループLINEをしたりしている(LINEには、私たち夫婦も加わっているが)。

武者小路実篤の色紙の「仲良きことは美しきかな」ではないが、家族が仲が良いことは美しく幸せなことだ。「兄弟は他人の始まり」という諺があるが、兄弟が結婚して家庭を持つようになると情が薄くなり他人のような関係になってしまうケースが多くなることも世間の事実ではある。その点、子どもたちは全くそんな心配がないように思う。連れ合いもみな性格は善人のせいなのだろう。それもこれも心優しい妻の育て方にあったのだと、心から妻に感謝したい。

私は生まれ変わってあと50年、生涯現役を皆んなに宣言している。人間は意志薄弱な動物であるから「有言実行」で生きることが大切なのだ。
日本人は奥ゆかしいから、かつて三船敏郎のサッポロビールのコマーシャル「男は黙ってサッポロビール」のような「無言実行」が男らしく、それが謙虚であるかのように思われていたが、これからはそうではないだろう。 これから生きる人間には、自ら言葉を発して、それを何事があっても実行する逞しさが求められている。

しかし、私が120歳まで生きると妻は117歳、長男は92歳、次男は90歳、三男は88歳になってしまう。孫たちも60歳前後、還暦の歳になる。そんな化け物のような家族になるのだ。それでも皆んな元気であればいいが、妻子や孫までもが先に旅立つということにもなってしまう。これは決して現実的ではないし、決して美しい姿ではない。 健康な長寿は目指すところではあるが、それにも限度があるということだ。

高校時代に古文で学んだ平安時代後期の歴史物語「大鏡」は、何百年も生きている二人の老人の会話から成り立っている。
高校生の私は、「もしこれが現実になったら、それは生き地獄ではないか」と背筋が寒くなったことを忘れられない。
それはそうだろう。子どもも孫もひ孫も玄孫も皆んな死んでいないのに本人たちは死ぬことができないのだ。
不死は人間にとって最大の拷問なのだと思った。
健康で長生きして、生涯現役で人さまのお役に立つこと。それは目指すところではあるが、適当なところで神仏や天が「そろそろ次の世に旅立つ用意をしなさい」と言って、次の世に送り出してくれることが幸せな人生ではないか。 命は有限であり、有限だからこそ、その命を熱く燃やすことができるのだ。不死では、いつでもできると思って何もできない。チャレンジすることもしないだろう。

不死を願って生きることで、有限の命を燃やすことができるのだ。そんなことを子どもたちと話した。

私は財産と言ったら何も持っていない。子どもたちに残すことは、私の生きざまの後ろ姿であり、「善き生き方」である。
おかげさまで子どもたちもそのことは良く分かってくれているようだ。

盾と矛とを両立させることは人間性が深く豊かになることだ。矛盾であって矛盾ではない生き方をすることが豊かな人間性を育む。

長生きすることは何かを成す手段であって目的ではない。
生きる目的は、人のために尽くす生き方をすることで、魂を高めることにあるのだ。

生まれてきた時の魂よりも少しでも高い魂を持って次の世に旅立つことなのだ。そんな生き方をしたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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