「活私奉公」と「人のために生きること」

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「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」とは葉隠の一節である。
太平洋戦争中に、特攻、玉砕や自決の時に「悔いなく死ぬ」ことのために使われたが、それは葉隠の言わんとしていることではない。 その意図するところは、「武士たる者は、主君のためには死ぬことも覚悟しなければならないという没我・献身に重きをおく」ことにある。 決して死ぬことを推奨しているのではなく、武士は「死ぬ覚悟を持って生きる」べきと言っているのだ。

「死んで花実が咲くものか」という諺もある。死んでしまったら天から与えられたミッションを何も果たすことはできないではないか。 武士道が推奨していることは、滅私奉公ではなく活私奉公なのだ。

しかし、武士道は「死を意識して生きる覚悟」を説いてはいても、それはあくまでも「主君のため」であり、「世のため人のため」ではない。 そこが私が今一スッと腹落ちしなかったことだ。

私の考える「活私奉公」の対象は、「人」であって決して「主君」ではないのだ。
戦前は国が「天皇のため」と言い、戦後は会社が「会社のため」と言い、国民を洗脳してきた。
決して「人のため」ではなかった。

「利他 人は人のために生きる」(小学館文庫)
稲盛和夫さんと瀬戸内寂聴さんの対談集だ。

お二人が言わんとされていることは、活私奉公であっても、奉公の対象はお上ではなく「人」なのだ。それは「統治の論理=武士道」ではなく、「市場の論理=商人道」なのだと思う。

天は全ての人にミッションを与えてこの世に送り出す。そのミッションとは何か。
人は真っ暗闇の中からそれを見つけ出そうと努力して生きる。暗中模索しながら青春を生きるのだ。そして、人は馬齢を重ねていく。自らのミッションを見つけることができればそれは幸せだが、生涯見つけることができずに死を迎える人は数知れず。

私はそのミッションを70年の歳月をかけて漸く見つけることができた。
あとは生まれ変わってそのミッションを果たすことだ。それが私の春夏秋冬の秋なのだ。
そして、冬を迎えることなく、前のめりになって死出の旅に出る。それが私の春夏秋冬の人生だ。

素晴らしい秋を満喫しようと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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