愛と誠と調和の心

投稿者:

今週の火曜日、令和4年11月8日、私は満70歳、古来稀なる「古稀」の歳になった。70歳と言えば私が若かりし頃は仕事を完全にリタイアして悠々自適な老後を送っているお爺さんだった。お爺さんと言えば祖父を思い出す。日露戦争、旅順の二百三高地に於いて、露軍に奪い取られた軍旗を取り返した功績もあって金鵄勲章を受章した祖父は、私が物心ついた頃は菊作りや路傍の石をさもダイヤモンドであるかのように研ぎ石やヤスリで磨いて床の間に飾っていた。私はその一つを宝物のように事務所に置いてある。祖父はいつも「ぼう(私のこと、坊やという意味)、『玉磨かざれば光なし』だぞ。玉は魂。魂を磨いて磨いて、お国のために尽くすんだぞ」と言っていた。70歳は祖父の好々爺のイメージだ。大学卒業して銀行に入った。入社式に臨席されていた会長はまだ70歳前だったが、お爺さんのイメージがある。そんなお爺さんになってしまったのだ。「思えば遠くにきたもんだ」
そんなお爺さんの歳だから、ということでもないが、成り行きで南麻布に都市型納骨堂を求め、6月4日に生前葬を、その午後に日本青年館で第二の生の出陣式を行なった。生まれ変わって、あと半世紀の人生を生きたいと思った。これも成り行きだが、そのベースには「宇宙の意志」があって、私をそのように思わせて、そのようにさせてくれているのだと私は勝手にそう思っている。
そんなことで、私にとって70歳(古稀)は人生の最も大きな転機になった。その最後の儀式が、私の誕生日にセットした『重陽の会』の集まりだった。私には兄弟姉妹はいない。子どもも3人とも息子ばかりだ。妹も娘も私には縁はないものと思っていた。ところが、70歳になって、妹や娘が私の古稀を祝ってくれるのだ。可愛い妹と愛娘だ。集まってくれた9人の半数以上は、この1年間に巡り会った女性たちだ。彼女たちも初対面が殆どだ。そんな女性たちが、初めて会ったとは思えない、昔からの知り合いのように心を開いて和気藹々と話している。どうしてだろうと思う。それは心が通じているからだろう。人生を生きる姿勢が前向きであり、女性として社会の壁を感じながらも、その壁を一つずつ自分の力で乗り越えてきたからなのだろう。人を思う「思いやり」がある、論語でいう「恕の心」を持っている人たちだからだろう。だから同士は瞬時に同志になることができるのだ。志は時を超える。志が全ての頂点なのだ。 
稲盛和夫さんはそれを「利他の心」であり、「愛と誠と調和の心」と仰る。盛和塾の仲間で親しくしていた皆木和義さんがある雑誌に書いていた「愛と誠と調和の心」の下記のコメントの通りだ。
これからの第二の人生は、「利他の心」「愛と誠と調和の心」「人を思いやる恕の心」を持って生きていきたいと思う。
不動院重陽博愛居士(俗名 小林 博重)

【愛と誠と調和の心】
「心」というものは、稲盛さんがいちばん大切にしているものである。稲盛さんにとって人生のテーマといえるだろう。
「心を高める」「人格を高める」というフレーズもよく聞く。稲盛さんが最初に出版した著書のタイトルがまさに『心を高める、経営を伸ばす』だ。「心が高まれば経営が伸びる」という考え方を記したものだ。
 人生と仕事、どちらもすばらしいものとするには、「心の在り方」が非常に大切になってくる。
他人の喜びを自分の喜びとする「愛」、世のため人のためになることを思う「誠」、自分だけでなく周りの人々が常に幸せに生きることを願う「調和」-。人を成功へと導びいてくれるのは、愛と誠と調和の心ということだ。私たちは、常にこのような心でいなければならない。
人間は、目に見える身体という肉体だけで存在するわけでなく、心を持っている。心の中でいろいろなことを思い、考えている。想いや考えがどこから湧き出てくるのだろうと考えると、最終的には「魂」に行き当たる。

魂とは人間の本質であり、それこそが、「愛」「誠」「調和」にほかならない。

本来、私たちは、愛と誠と調和で満たされているものだが、魂と同時に、肉体を持つがゆえ、その肉体を保つために、食事をして栄養を摂る。栄養が足りなければ、その欲求を満たすため、必要であれば他者とも争う。

私たちはこの欲望を抑え、こらえることで、愛と誠と調和に満ちた魂が表に出てくるよう努める必要がある。

心の持ち方一つで変わる

稲盛さんは得度されたが、師である臨済宗の西方擔雪老師から、「三尺三寸箸でご馳走を食べる」という話を学ばれたとも聞く。有名な仏教の話で、人を思いやる美しい心、利他の心の大切さを説いたものだ。

あの世には極楽と地獄があるが、その二つは似ていて、ほとんど同じような場所だという。違うのは、それぞれに集まっている人の心だけだ。

極楽にも地獄にも、おいしそうなうどんが入った釜が置いてあり、箸は三尺三寸、つまり約一メートルもある箸を使って何とか食べるしかない。

地獄にいる人たちは、全員「自分が!自分が!」となり、我先においしいうどんを食べようと争い、三尺三寸の長い箸を釜に入れてうどんをつかむのだが、箸が長すぎて自分の口へ運ぶことができない。そこで、人の箸に挟まったうどんを盗ろうとして、けんかとなり、誰もがうどんを食べることができず、餓鬼道に堕ちてしまう。

一方、極楽では、三尺三寸箸でつかんだうどんを自分の口へと運ぶのではなく、釜の反対側にいる人の口へ「どうぞ」と運ぶ。そして、うどんを食べた人が「お次はどうぞ」と、うどんをくれた人の口へうどんを運ぶ。けんかすることもなく、皆がおいしくうどんを食べ、幸せな食事をしている。

同じ境遇でも、美しい思いやりの心、利他の心を持つことができるかどうかで、状況は変わる。自分次第で地獄にも極楽にもなるということだ。

心というのは、流動的で不確かなものではある。しかし、一方で、心ほどお互いを固く結びつけるものではない。

三尺三寸箸の話のように、自分さえよければいいという考えはやめて、周囲や世の中のために役に立とうと心を高めていこう。それが稲盛和夫のようになる一歩だ。
皆木 和義

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です