応援(OUEN)の真髄=人は人のために生きる。

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私と「応援」との関わりは、中学時代に遡る。石川県鹿島郡(中能登)での陸上競技の郡大会の応援合戦だ。高校では金沢大学附属高校と名古屋大学附属高校の定期戦(旧制四高と旧制八高の定期戦に由来する)での応援合戦があった。 いずれもスポットの応援だったので、「応援の本質」というところまでは至らなかった。

東大に入り、ボディビル&ウェイトリフティング部に入部したが、身体を鍛えるという点では先輩たちは東大生らしくストイックなところがあり、その姿勢に尊敬の念を持ったが、殆ど人間的付き合いがない部だった(単に部活動のあとお酒を入れた懇親の席がなかっただけなのだが)。 能登の田舎から出てきて東京の水に慣れず、人恋しい気持ちもあったのだろう。そんなことで、2年生の4月にB&W部を退部して応援部に転部した。 応援部は理不尽なところもあったが、その後のフォローがあって、私には人間味溢れるクラブと映ったのだ。
応援部にのめり込み、「応援とは何か」「応援の本質とは何か」という理屈っぽい議論を日常茶飯事、練習や野球の応援のあとに仲間としたことを懐かしく思い出す。 そして大学を卒業して、公務員試験にドロップし、絶対入りたくないと思っていた信託銀行に入った。
そして、金融機関の役割はまさに応援ではないか。志高い企業家や起業家の応援をすることではないかと、これまた理屈を付けて銀行に勤めることを自分に納得させた。 そうでもしなければ、銀行に入ったことが素直に腹落ちしなかったのだろう。

「私は何のために生まれてきたのか」「これからどんな生き方をすれば、幸せな人生と言えるのだろう」そんなことを絶えず考えて生きてきたような気がする。 そんな哲学的なことを考えてもそれはお金に結びつくことではない。実際お金を稼がなければ生きていけない。
そんなことで、「出世の階段を昇っていくことが幸せな人生を送ることになる」と自分に思い込ませようと思って生きてきたのだと思う。性格的に銀行のような金融機関は私の肌に合わなかったのだろう。

40代になって事業法人の新規開拓を任されて、そこで何人かの盛和塾の塾生の社長たちに出会い、そして稲盛和夫さんとの出会いがあった。
バブルが弾けて生き残りに必死だった銀行はその本来の「人や企業の応援」というミッションを見失ってしまった。というのは言い過ぎかもしれないが、その中に生きている私にはそう映った。

人生80年の時代だ。人生の半ばを過ぎ、そろそろ人生を振り返る年代になった。後悔はしたくない。棺を覆う時、「私の人生は幸せだった」と思って旅立ちたいと思った。 何も力のない私であるが、同じ想いの同志たちの力を借りてその想いを果たすことができるのではないか。そんな生き方をしたい。そんな思いがあった。

そして、四半世紀生きてきた。七転八倒、紆余曲折の四半世紀だったが、多くの温かい心根の人たちに出会うことができた。まだこれからだ。古来稀なる古稀と呼ばれる歳になってしまったが、これから半世紀、頑張ってみよう。 体力の衰えを感じ、無理はできない歳になった。心と身体のバランスを大切にして、無理の手前まで頑張ってみようと思う。

OUEN Japanはその名の通り、「日本を応援する」ということ。「日本を元気にする」「地域を元気にする」「企業を元気にする」「人を元気にする」「学生を元気にする」「皆んなで一緒になって、日本と地域を元気にする」

ボランティア精神と独立自尊の精神を持って、ビジネスを起こす。今までの失敗の体験を成功の種とする。そして、世のため人のために尽くすことだ。

そんなOUEN塾をつくっていきたい。私は応援団長。あくまでも黒子に徹する。人と人をつなぐことが私の役割だ。

大きなビジョンを描く人がいる。ビジョンを描く人がOUEN塾長。それを私が受けて、大学、企業、学生、自治体をつないでいく。私はそんな応援=OUEN団長。間違えてはいけない。 チームワークだ。それぞれの得意分野をフルに発揮することだ。
援けてくださる人たちはたくさんいる。彼らたちのサポートをいただくためには、志が高くなければならない。大義の下に人は集まってくる。必ず集まってくる。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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