人間の器量の大きさ

インド独立の父であるガンジーは言っている。
弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ。

そんな強い人間は果たしているのだろうか。善良な人間の心をズタズタに踏み倒し、組織のトップとしてその責任を放棄し、その後始末を全て部下に投げて逃げ回る。

「盗人にも三分の理」と言うが、そんなリーダーは盗人以下の人非人ではないか。
部下のなしたどんなことでも自らの責任として背負う潔さを持った人徳がリーダーには求められるだろうに。

そんなリーダーを持つに至った部下やそんなリーダーと付き合うことになったビジネスの相手は、自分の人を見る目が至らなかったと言えるだろうか。
稲盛さんは、そのリーダーの下に働いた部下や、付き合ったビジネスパートナーを「それは人を見る目がなかったからだ。自らの至らなさを反省せよ」と仰るのだろうか。私にはよく分からない。

ガンジーのような強さは、私のような凡人はまだまだ持つことができない。私は、その境地の足元にも一生かかっても辿り着くことはできないように思う。せいぜい、そのような人間と付き合うことをした自分の至らなさを反省し、淡々と絶交を宣言することしかできない。ガンジーのように「許す」ことなど決してできはしない。

今まで何人、そんな人非人と付き合ってきただろうか。私の人の好さに呆れ果てる。「騙すより騙されたほうがマシだ」と自らを慰めることで鬱憤を晴らすことしか私はできない。

今、私はその人非人と淡々と絶交することを宣言する。決してこれからは付き合うことをしない。
淡々と生涯を掛けて、被った被害の見合いを請求しつづけるのみだ。決して許すことはしない。債権を放棄することはしない。これが今の私ができることだ。

それにしてもガンジーは偉人だと思う。稲盛和夫さんはこんなとき何と仰るだろうか。
つくづく、人間の奥の深さ、器量の大きさに思いを致し、自分の小粒な器量を情けなく思う。

私は、まだまだ菩薩の域には程遠い。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)