ふるさと石川を思ふ。⑵

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昨夜は能登と加賀のお酒で少し酔いが回り過ぎたのか、温泉には入らず、すぐ寝床に就いた。
目覚めたのが3時半。温泉に入るにはちょうどいい時間だ。4時前の風呂場には誰もいない。私だけの時間だとゆったり風呂に浸かっていたら、豈図らんや1人が入ってきた。 「珍しい人もいるものだ」と思ったが、この私がそうなのだからそれは天に唾するようなものだ。私と違って偶々早暁に目覚め温泉に足が向いたのだろう。

私は一般人の常識に拘泥することなく我が道を行くことで、それでいて人さまにご迷惑をおかけしないで、逆に人さまのために生きることをモットーにすることがストレスのない人生と思うようになった。 これは人さまにお薦めすることではないが、こんな生き方が人生を楽しく生きる一つのコツ、そんな生き方もいいじゃないかと思っていただく人もいらっしゃると思う。

人の心を慮る「恕の心」は、決して世間に染まることではない。相手が今どんなことを考えて、こうしたいと思っていることに思い至ることであり、決して俗世に染まることではない。

私は銀行で採用を7年間していたが、学生には「社会に出ても俗世に染まるな。俗世を下に見ることはいけないが、俗世に染まらず孤高の生き方を死守する孤高の人になることだ」とよく彼らと飲みながらよく「生き方」の話題をしたものだ。

私は中学時代に国語の時間に覚えた若山牧水の歌をこよなく愛している。

白鳥(しらとり)は哀しからずや
空の青、海の青にも染まずただよふ

私独自の解釈だ。
多感な中学生だったのだろう。私はこんな白鳥になりたいものだと思った。年齢を重ねても、空の青や海の青にも染まらないで生きていきたいものだと、その孤高な生き方に憧れたものだ。 それで世間的には損をしていることもある。しかし、たとえ世間に受け入れられたとしても、心が俗世に染まってしまったらどこに生きている意味があるだろうか。
私は決して濁世に染まることのない「白いハンカチ」になりたいと思った。そして、その心は未だに残っている。いや、より強く、逞しく、その想いは確信に至るまでに高まっている。

人の心に思いを致しても、それと自らの生き方は我が道を行くことだ。世のため人のために生きることだ。

もうすぐ5時になる。ちょっと一寝入りするか、眠れなくてもベットに横になって心穏やかにうつらうつらする。
今日もいいことがありますように。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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