稲盛和夫さんのご冥福をお祈りします。

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令和4年8月24日、稲盛和夫さんが逝去された。享年90歳。天寿を全うされたと言えよう。「巨星墜つ」の心境だ。
来るべきものが来た。人間の命は不滅ではあり得ない。いつかこの世を旅立つ時が来ることはやむを得ないとは言え、私にとってその衝撃は「人生の師を失った」以上のものだ。

京セラおよびKDDIの創業者、盛和塾塾長、日本航空・奇跡の再生の立役者、京都賞の創設者等、彼の偉大な実績・功績は誰もが知るところだ。 そして、私にとって稲盛さんは何にも代えがたい「人生最高のメンター」であった。

稲盛さんにお会いしたのは、私が40歳前半の頃、安田信託銀行札幌支店から本店営業部に転勤した頃だ。
金融自由化の波が押し寄せ、金融機関は如何にして生き残るかと合従連衡が始まったばかりの時だ。私に任されたミッションは、事業法人の新規開拓だった。ベンチャービジネスをはじめとして、これからの成長企業のメインバンクにならないと安田信託銀行は淘汰されてしまうという強い問題意識があったからだ。

私は課長として課員の先頭に立ち、多くの中堅・小企業を日参した。その中に、一人ならず盛和塾の塾生がいらした。彼らと親しくなり酒席を共にするようになって、彼らが私に言うことには、「小林さんはお堅い銀行には向いていないのではないか。私たちは稲盛和夫さんが塾長である『盛和塾』に入っている。この塾は中小企業の経営者や二代目が入っていて、勤め人は入ることはできないが『盛和塾』という機関紙は購読できる。是非、購読を申し込んで読んでみることをお勧めする」と。
また、盛和塾大江戸(東京にあった2つの盛和塾の支部の一つ)に稲盛さんがいらっしゃる時にオブザーバーで参加してみたらとお誘いがあった。それが稲盛和夫さんにお会いした最初だった。

稲盛さんの謦咳に接し、自己紹介をしてお話しをさせていただく機会があった。安田信託銀行の当時の会長は鹿児島出身の高山富士雄さんだった。稲盛さんは同じ鹿児島出身の高山さんとは面識があったようで、「高山さんの安田信託銀行にお勤めですか」と。そして、会話が進むと「小林君は銀行で何をしたいのですか。社長になることですか。何をしたいと思って銀行に入ったのですか」「どんな人生を送りたいと思っていますか」「生きるとはどういうことだと思いますか」と立て続けに私が考えてもいないことをご質問されたのだ。それは私にとって頭を殴られたような衝撃だったことを忘れない。 私はサラリーマンの出世の階段を一歩一歩駆け上がり、その頂点に向かって日々邁進していこうと思っていた。
「それが君の人生なのか。そんなちっぽけなものが小林君の人生なのか」と言われたような気がした。
今、人生は100年時代と言われる。まだまだ人生80年と言われていた時だ。人生の半ばを過ぎ、ふと立ち止まろうとしたその時に言われた稲盛さんの言葉だった。

そんなことがあって、その後、銀行で半沢直樹のようなことがあって、私は安田信託銀行を44歳6ヶ月で中途退職した。
それからの人生は「七転び八起き」ならぬ「七転び八転び」、紆余曲折、七転八倒。甘ちゃんの私には試練の連続の四半世紀だったが、絶えず稲盛さんが私の水先案内人だった。盛和塾に入塾し、稲盛さんのご本を熟読し、箴言を反芻する日々だった。 「トマトはトマト、決してカボチャにはなれない」ことは承知しつつも、生き方・考え方は稲盛さんから学ぼうと思って生きてきた。そして今の自分がある。

東大応援部の3Sスピリッツ(サービス、サクリファイス、スタディ)と稲盛哲学を私なりにアレンジしたOUEN哲学は私の生きる指針になっている。そして、今、生前葬を経て出陣式で生まれ変わり、第二の人生を送っている。

45歳からの四半世紀の後半人生は稲盛和夫さんがなかりせば、今の私はない。

80歳まであと10年
稲盛さんの歳まであと20年
人生100歳まであと30年
目指す120歳の天寿まであと50年

長くて短い人生だ。
あと50年の人生と思うが、明日おさらばとなるやも知れず。
この両極端の想いを同居させて、堂々たる後半生を生きていきたいと思う。

ここに、稲盛和夫さんのご冥福をお祈りします。

合掌

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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