大才は袖触れ合う縁をも生かす

9時発の新幹線のぞみの指定席を取っていたが、何事もせっかちの私は8時20分前に東京駅に到着した。京都で時間を潰せばいいと思い、8時20分過ぎののぞみ自由席に飛び乗る。京都駅で40分待って、山陰本線城崎行きのきのさき5号で12時40分に福知山駅に到着した。

福知山市の「もみじが丘病院」、宮津市の「成相山青嵐荘」を訪問。夜は福知山の鴨鍋を堪能した。
福知山は今回で2度目だ。懇親の席には、前回の福知山出張のおり知り合った森北千鶴さんもいらした。
彼女は45歳。ちょうど私が銀行を中途退職して、日本海の荒海に乗り出した歳になる。まだ45歳。若い。
人生80年であれば半分は過ぎているが、今は人生100年時代だ。まだ半分以上の人生がある。私のように120歳が天命と思えばあと75年だ。

人生は長いようで短い。
明日何があってこの世とおさらばするやも知れず。人生は何が起きるか分からない。100%絶対こうなるということはないのだ。しかし、完璧を目指したい。そんな人生を送りたい。 完璧を目指すが、完璧はあるはずもなし。さりとて完璧を目指す心と闘う心は持って生きたい。それが人生を極めて楽しく豊かにする。 両極端を併せ持つ心豊かなバランスある人生を送りたいと思う。

彼女とは親子というほどの歳の差がある。彼女のお父上は私の2歳上の72歳だとか。そんな娘のような女性と人生を語らう。ザックバランに人生の酸いも甘いも語り合う。 45歳はちょうど人生を振り返る歳なんだろう。私もそうだった。そして四半世紀して、今の私がある。

彼女も私同様、七転八倒、紆余曲折、七転び八転びの波乱万丈の人生が待っているやも知れず。しかし、それも結構楽しいものだ。
苦労を苦労と思わず、自らを成長させる磨き砂と思えば人生は楽しくなるのだ。一歩一歩の成長を楽しむことができる。人生は考えようだ。考えようによって楽しくも苦しくも悲しくもなる。 同じ生きるなら楽しい人生でないと生きる意味がないではないか。

森北さんは、9月10日の土曜日に東京に来るという。
この日は明治神宮球場で東京六大学野球リーグ戦東大対立教第一回戦があり、OB・OG集合日だった。しかしコロナで10月に繰延になった。ちょうど予定は入っていない。ウェルカム森北さんだ。

昼はつい先日行った青山グランドホテルのKAWAKAMI-AN(川上庵)という青山らしい洒落たお蕎麦屋さんで昼から一杯と行こうか。

柳生家の家訓
小才は縁に出会って縁に気づかず
中才は縁に気づいて縁を生かさず
大才は袖触れ合う縁をも生かす

せっかく出会ったご縁ではないか。それに出会っても気づかなかったり、気づいても生かさなかったりしたら何と勿体ないことではないか。 袖触れ合う縁をも生かす大才になりたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

稲盛和夫さんのご冥福をお祈りします。

令和4年8月24日、稲盛和夫さんが逝去された。享年90歳。天寿を全うされたと言えよう。「巨星墜つ」の心境だ。
来るべきものが来た。人間の命は不滅ではあり得ない。いつかこの世を旅立つ時が来ることはやむを得ないとは言え、私にとってその衝撃は「人生の師を失った」以上のものだ。

京セラおよびKDDIの創業者、盛和塾塾長、日本航空・奇跡の再生の立役者、京都賞の創設者等、彼の偉大な実績・功績は誰もが知るところだ。 そして、私にとって稲盛さんは何にも代えがたい「人生最高のメンター」であった。

稲盛さんにお会いしたのは、私が40歳前半の頃、安田信託銀行札幌支店から本店営業部に転勤した頃だ。
金融自由化の波が押し寄せ、金融機関は如何にして生き残るかと合従連衡が始まったばかりの時だ。私に任されたミッションは、事業法人の新規開拓だった。ベンチャービジネスをはじめとして、これからの成長企業のメインバンクにならないと安田信託銀行は淘汰されてしまうという強い問題意識があったからだ。

私は課長として課員の先頭に立ち、多くの中堅・小企業を日参した。その中に、一人ならず盛和塾の塾生がいらした。彼らと親しくなり酒席を共にするようになって、彼らが私に言うことには、「小林さんはお堅い銀行には向いていないのではないか。私たちは稲盛和夫さんが塾長である『盛和塾』に入っている。この塾は中小企業の経営者や二代目が入っていて、勤め人は入ることはできないが『盛和塾』という機関紙は購読できる。是非、購読を申し込んで読んでみることをお勧めする」と。
また、盛和塾大江戸(東京にあった2つの盛和塾の支部の一つ)に稲盛さんがいらっしゃる時にオブザーバーで参加してみたらとお誘いがあった。それが稲盛和夫さんにお会いした最初だった。

稲盛さんの謦咳に接し、自己紹介をしてお話しをさせていただく機会があった。安田信託銀行の当時の会長は鹿児島出身の高山富士雄さんだった。稲盛さんは同じ鹿児島出身の高山さんとは面識があったようで、「高山さんの安田信託銀行にお勤めですか」と。そして、会話が進むと「小林君は銀行で何をしたいのですか。社長になることですか。何をしたいと思って銀行に入ったのですか」「どんな人生を送りたいと思っていますか」「生きるとはどういうことだと思いますか」と立て続けに私が考えてもいないことをご質問されたのだ。それは私にとって頭を殴られたような衝撃だったことを忘れない。 私はサラリーマンの出世の階段を一歩一歩駆け上がり、その頂点に向かって日々邁進していこうと思っていた。
「それが君の人生なのか。そんなちっぽけなものが小林君の人生なのか」と言われたような気がした。
今、人生は100年時代と言われる。まだまだ人生80年と言われていた時だ。人生の半ばを過ぎ、ふと立ち止まろうとしたその時に言われた稲盛さんの言葉だった。

そんなことがあって、その後、銀行で半沢直樹のようなことがあって、私は安田信託銀行を44歳6ヶ月で中途退職した。
それからの人生は「七転び八起き」ならぬ「七転び八転び」、紆余曲折、七転八倒。甘ちゃんの私には試練の連続の四半世紀だったが、絶えず稲盛さんが私の水先案内人だった。盛和塾に入塾し、稲盛さんのご本を熟読し、箴言を反芻する日々だった。 「トマトはトマト、決してカボチャにはなれない」ことは承知しつつも、生き方・考え方は稲盛さんから学ぼうと思って生きてきた。そして今の自分がある。

東大応援部の3Sスピリッツ(サービス、サクリファイス、スタディ)と稲盛哲学を私なりにアレンジしたOUEN哲学は私の生きる指針になっている。そして、今、生前葬を経て出陣式で生まれ変わり、第二の人生を送っている。

45歳からの四半世紀の後半人生は稲盛和夫さんがなかりせば、今の私はない。

80歳まであと10年
稲盛さんの歳まであと20年
人生100歳まであと30年
目指す120歳の天寿まであと50年

長くて短い人生だ。
あと50年の人生と思うが、明日おさらばとなるやも知れず。
この両極端の想いを同居させて、堂々たる後半生を生きていきたいと思う。

ここに、稲盛和夫さんのご冥福をお祈りします。

合掌

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

素晴らしい女性との巡り会い

竹本毅さんが中瀬幸子さんを事務所にお連れになった。
竹本さんは東大の3年後輩だ。まだ知り合って1年も経っていないが、なぜか気があって昔からの友人のようにザックバランにお付き合いさせていただいている。
彼は、顔が広く、そして、多くの友人知人を私に紹介してくださる。今回は私の娘のような若い素晴らしい経営者だ。

16時から事務所で打ち合わせして、17時過ぎに青山グランドホテル2階のKAWAKAMI-AN(川上庵)で美味しいお酒とつまみ、仕上げに長野の蕎麦を堪能した。

https://avinton.com/about/
中瀬さんは、日本(横浜市本社)に拠点を置くビジネスおよびITコンサルティング会社であるAvinton ジャパン(株)の代表取締役だ。資本金3.9億円、2020年売上20億円、従業員数129名(2021年5月末現在)。

ネットで、「Avintonジャパン中瀬幸子-社長メシ」を繰ると彼女の自己紹介が出ている。

富山県魚津市出身、1986生まれ(35歳)。大学時代は海外ボランティア、フィリピンでの活動で、日本が如何に豊かで恵まれているのかと気付かされたことが人生のターニングポイントだったのだと。

「社会を変えるにはボランティアではなくビジネスであり、雇用を創出していける仕事を確立し社会貢献したい」と高い志を持つようになったと(私も全く同感だ。私のOUEN塾のボランティアはOUEN Companyのビジネスマッチング、ビジネスコラボレーションがあってのことだ。私はボランティア=ビジネスと思っている。ビジネスがベースのボランティアでないとサスティナブルな社会貢献はできないと思う)。

「人は人のために生きる」
それが人が幸せになる最短距離なのだ。それを彼女は自ら淡々と実践している。素晴らしい!!!の一言に尽きる。

彼女は一人でこのビジネスを立ち上げたのだろうか。そんなことはない。多くの人たちのサポートがあってのことだろう。謙虚と感謝。35歳にして、その精神年齢は遥かに私を超えている。私は足下にも及ばない。頭が下がる。
それでいて、いや、それだからこそ、35歳でこのような会社を経営するまでになったのだろう。

誠実、真っ直ぐ、謙虚、偉ぶるところがない。そして、越中人らしい素朴さとガッツを持っている、実に魅力的な女性だ。正に、稲盛哲学の実践者と言えよう。

素直さが売りの私だ。私の子どものような若い彼女から学ぶことは多くある。素直に学ぼうと思う。

人のご縁が拡がるようにビジネスもWin Win Winで拡がっていく。タモリの「友だちの友だちは皆友だち」を実践していくことが、皆んなの幸せにつながるのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)


青山グランドホテル2階のKAWAKAMI-AN(川上庵)にて

私は運がいい人間/綱渡りの人生

中村天風翁の【絶対積極】と【相対積極】について考える時、松下幸之助さんの【絶対積極】の具体的実例を思い浮かべる。

松下幸之助さんは採用面接の時、必ずこんな質問をしたと言われている。

「君は運がいいか?」

自分は運が強いんだと確信していれば、どんなことでも受け入れて立ち向かう勇気と力が生まれてくる。人から見ると決して運がいいとは思えない状態であっても、自分は運がいいと思い前向きの人生を送る人が成功を勝ち取ることができる。松下電器はそんな運がいいと考える人を採用したのだ。

翻って、私自身の来し方の人生を振り返ってみる。

私の来し方の人生は「運がいい人生」だったと思う。七転八倒、紆余曲折の「綱渡り人生」だったが、楽しい幸せな人生だった。

小中学校の成績は学年ではトップを維持していたが、所詮、能登の片田舎の小中学校だ。全く格別に秀でた頭脳を持ってはいなかったが、周りから煽てられて豚が木に登ってしまったのだ。

高校は地元の七尾高を目指していたが、先生が金大附属高を推薦してくださるという。
この高校は石川県下の中学生は推薦でしか入学できなかった。入りたくても中学校の推薦がなくてはどうしようもない。中学3年生での模擬試験の成績が合否に大きなウエイトを占めていた。それくらいしか合否を判断する材料がないから当然のことなのだろう。
先生は私を推薦したいから「模擬試験を頑張れ」という。そんなことで10回の模擬試験を受験した。まぐれが続き、その内の5回はトップだった。そのせいもあり、おかげさまで金大附属高校にめでたく合格することができた。これも「小林はできる」と煽てられたからできたことだった。

高校では、田舎から出てきたことで最初は小さくなっていたが、同級生に「小林は面白い奴だ」と煽てられたことで、文化祭や予餞会で「王将」の寸劇で坂田三吉を演じたり、「巨人の星」の星飛雄馬を演じたりして高校の人気者になった。
大学受験は東大か京大を考えていた。私は京大の前身である旧制第三高校の寮歌が好きだった。自由闊達でロマンチックな校風に憧れていた。しかし、祖父の「東大を目指せ」の遺言もあり、東大を受験しおかげさまで現役で合格することができた。これも運がいいと言ったら運がいい。

東大では応援部漬けの大学生活だったが、ここで学んだ「応援哲学」「3Sスピリッツ」(Service、Sacrifice、Study)は私の人生哲学になっている。東大応援部に入部していなければ今の自分はない。京大でなく東大で良かったと思う。

公務員試験はドロップしたが、私のような性格では公務員は無理だったろう。義理人情でがんじがらめにされてお縄ということになりかねない。公務員にならなくて良かった。
銀行員には向いていないと思ったが、安田信託銀行は銀行らしくない銀行で、私の勝手気ままを結構許してくれた。21年勤めて、やはりこれ以上銀行員を続けるのは無理だと思って辞めたのだが、それまで何とかやってこられたのも安田信託銀行だったからだった。 銀行では妻にも巡り会って、人からは「小林には過ぎた女房」だと言われることが多い。これも私は運がいい。

45歳で銀行を辞めて四半世紀が過ぎた。七転八倒、紆余曲折の四半世紀だったが、盛和塾と稲盛和夫さんに巡り会って、東大応援部の3Sスピリッツと稲盛哲学を合わせた、私なりのOUEN哲学を持つことができた。それは日々を追うごとに確固としたものになっている。 災いと思っていたことは災いではなく自分を磨く磨き砂だったのだ。

そして、古稀になって生前葬&出陣式を経て第二の人生を謳歌している。
第二の人生での生業はOUEN Companyと OUEN塾だが、今はコロナ禍でOUEN Companyに特化せざるを得ないが、それはビジネスマッチングのみならず、私が渦の中心になるビジネスコラボレーションに拡がってきている。 これは私が仕掛けてなっているものではないが、天がそのようにしてくださっている天恵ではないかと思う。これを運がいいと言わずしてなんと言おうか。

慌てず、焦らず、じっくりと大きく育てていきたいと思う。

私は運がいい。

結果として私の天寿は120歳でないかもしれないが、人生120年と思って頑張っていこう。そしてその時が来たら、快くバトンを後輩に託そうと思う。

松下幸之助さんではないが、運がいい人生は幸せな人生だ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

OUEN塾リーダーOBの江崎君とのランチ会食

本日は【OUEN塾in福岡・北九州】の学生リーダーだった江崎卓君が藤沢市から外苑前の事務所に来てくれた。
「お盆に実家がある福岡に帰省していたので、団長にお土産をお渡ししたいので行っていいですか」と連絡があったものだ。

福岡には私は月に1〜2度は出張しているのでお土産をもらうことはないのだが、江崎君の気持ちがありがたい。何人もOUEN塾のOBやOGはいるが、江崎君の心配りは別格だ。 その心配りだけでも彼は人生の成功者になるのではないかと思う。

私が、生前葬&出陣式から急に仕事が多忙になったことを話すと、「団長はお元気ですね。どうしてそんなにお元気で仕事ができるんですか」と聞く。 人は人に人生を語ることで、そのような人間になろうとする。言葉や活字で人生の生き方を顕在化させることで人は成長するものだ。

私は孫のような江崎君に、
「人生とビジネスはイコールだ。人生(ビジネス)の成功は、相手がどんなことをしているのか、どんなことを望んでいるのか、そのことを会話を通してアバウトにでも掴むことから始まる。 そして、それを自分がどんなお手伝いをすることができるかを考えて、できることをすぐ実行に移すことだ。
それは相手のためでもあるが一番は自分のためだ。いや、自分のためを思って相手のために尽くすことだ。そうすれば人間関係やビジネスは絶対上手くことが運ぶ。 そうずっと思ってきたが、生前葬&出陣式のあとにそのことが現実として私の周りでたくさん起こっている。体験は学びを一層確固とした信念に変えてくれる」 そんなことを話した。

江崎君はまだ今年入社した新人であり、自分のことでまだまだ精一杯なのだと。団長の心境は全く程遠いことだと言う。私も新入社員の時はそんなものだった。

「団長はいつから人生を考えるようになったんですか」

「人生は長くても短くても無限ではない。必ず終わりが来る。一日生きると過去と未来の比率は少しずつ過去の比率が高くなるだろう。人生80年としたら、その半分の、私が40歳代になった時からそんなことを考え始めたと思う。 そして稲盛和夫さんに出会って、人生の根っこのところを考え始めた。私は何のために生きているのか、私のミッションは何かと考え始めて、今日に至っている」

お昼の12時を過ぎて、「中華でも行くか」というと、「この前連れて行って下さった豚カツのお店に行きたいです」と。
4月だったか、OUEN塾リーダーOGたちと表参道の「まい泉」に行ったことがある。まい泉の箸で切れる豚カツがとても美味しかったのだと。

まい泉で軽くビールを飲みながら、美味しい豚カツに舌鼓を打った。
「団長、また連れて行ってください」と言って江崎君は表参道から
代々木上原経由の小田急線で湘南台に帰っていった。

OUEN塾では、こんな素直な真っ直ぐな心根の若者たちを育てていきたいと思う。

OUEN塾の再開は来年以降になるだろう。早くコロナが収束することを願うばかりだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

絶対積極の境地を目指そう。

第二の生が始まって想定以上にビジネスは順調に進んでいる。いくつかの案件を並行して走らせているが、これはビジネスマッチングに留まらず、私がビジネスコラボレーションの調整役をしているケースが一つならずあるのだ。

実に多忙を極めている。ありがたいことだ。OUEN Companyが増えるに従って、その組み合わせは多種多様になるからだ。そして、面白いようにビジネスは展開していく。
ビジネスマッチングは比較的短時日で成果は出るが、ビジネスコラボレーションについては、その仕掛けを私が渦の中心になって行なうために、ビジネスマッチングの何倍もの時間がかかる。それだからやりがいがあり、面白くもある。
ビジネスとはこんな面白いものかと古稀になって知るに至っている。長生きはするものだ。まだまだ、私には、あと半世紀の人生がある。

こんな面白いことばかりがあれば苦労はしないのだが、とんでもないことにも遭ってしまうのは確率的には仕方のないことかもしれない。しかし、物は考えようだ。

中村天風翁の「絶対積極の教え」は稲盛和夫さんの稲盛哲学にも多大な影響を与えている。その「絶対積極」と「相対積極」が頭に浮かんだのだ。

絶対積極の意識とは何か?
【絶対積極】とは、自分自身の心底から湧き上がる積極的態度であり、「何事に対しても虚心平気の状態」を指す。
何事があろうが、超然とした泰然不動の心の状態。平安を確保し得た「絶対的な強さ」を有する心の状態。

自分の外側の世界である「相対的なもの」と比較せず、それを遥かに超えた何ものにも囚われない、どこまでも自由で泰然とした心。
心に雑念や妄念、恐れが一切ない状態。決して誰かと張り合おうとか対抗しようとか打ち負かそうとか負けないといったような気持ちより一段高いところにある境地。
ぶれない、折れない、日和らない。

あらゆる執着から解き放たれ超越した先にある平常心。
その境地が、最も「人間の可能性」を発揮させる強さをもたらす。
禅の世界の「無我の境地」
それでいて、無限の自信と力が心底から溢れてくるような境地。

私たちは、まずは「相対積極」を身につけていくこと、そしてその先の「絶対積極の境地」を目指すことだ。

災いを災いと思うこと、災いと言われていることを素直に磨き砂と思おうと努めることは「相対積極」であり、災いは自分を磨く磨き砂と素直に思うに至った境地が「絶対積極」ではないのか。

まずは相対積極から、
次の高みは絶対積極だ。

絶対積極の極地に到達することができれば、それは人間の生きる意味を悟ることであり、それは人間の最高の幸せなのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

ビジネスの基本

(株)ベスト・イン・ブルーム(大阪市本社)の才田さんが事務所にいらした。6月24日にいらして以来、ちょうど2ヶ月ぶりだ。7月にもお会いする機会はあったが、その時は私が大阪出張だったのでお会いできなかった。

彼はベンチャービジネスのコンサルティングで毎月上京しているとかで、ビジネスやプライベートでいろいろご相談に乗っていただこうと思っている。

16時から17時過ぎまで、事務所で雑談(雑談からビジネスが生まれる)をして、それじゃいっぱい行こうかということで、私が「中華にするか、洒落たお蕎麦屋さんにするか」と聞いたところ、「昨日は中華だったので、蕎麦屋がいいですね」と。 それではというので、青山ベルコモンズの跡地に建った青山グランドホテル2階にあるKAWAKAMI-AN TOKYO(川上庵)に足を向けた。 このお蕎麦屋さんは長野・軽井沢の人気お蕎麦屋さん「川上庵」の東京の新店舗だ。

私は銀行時代(四半世紀以上前、40歳代)に、よく蕎麦好きの上司に誘われて日本橋の蕎麦屋で「軽く一杯」と仕事を終えて立ち寄り、ほろ酔い加減で帰宅したものだ。そばがきや板わさなど、蕎麦屋でしか出ないツマミを取って飲んだ。上がりは勿論、蕎麦を注文する。 客は私たちの他は、会社帰りのおじさんばかり。若者はいない。女性に至っては論外だ。

それがこの青山のKAWAKAMI-ANはどうだ。若い女性客のほうが多い。カップルもチラホラ。おじさん(私はおじいさん)は肩身が狭い。広々とした店内。蕎麦屋とは思えない洋風のレストランだ。軽井沢の人気店だけはあって蕎麦は長野の本格派だ。 和食でも青山だとこんな洒落たお店になる。才田さんは「新橋や大阪ではこのようなお店は流行らない。やはり青山じゃないと」と言う。 和でも洋でも、既成概念を外せば、その場に相応しい人気店になるのだ。これはビジネスでも人生でも言えることだろう。
私もそんな第二の生を生きていきたいと思う。

才田さんは私が好きな義理人情派だ。穏やかな笑顔の中にガッツが溢れている。論語の恕の心を持ってビジネスをしている。それが笑顔に溢れているのだ。だから、私は何でも話すことができる。 ビジネス=人生だ。人のためを考えることが本流のビジネスであり、それが人も自分も幸せにするのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

愛を広めていくミッションを持って生きる。

早いもので生前葬&出陣式(6月4日)から2ヶ月以上が経った。
生前葬で70年の第一の生(1952年〜2022年)を終え、新たに第二の生を生きている。私の想定では、第二の生は2022年〜2072年の50年(半世紀)と考えている。第一の生から数えて120年である。 今まで120年の生を全うした人間は皆無らしいから何と夢物語を語っていると呆れられるが、夢は思わなければ果たすことができない。

勿論、120年生きて、妻子も同様に歳を重ねるとしたら、私の家族はそれは老老もいいところだ。適当なところで旅立つのが人に嫌われない人生とは思うが、生涯現役を貫こうとするならばそんな気合いが肝心だ。 仕事の最中に前のめりになって倒れることが私の人生の終末の理想の姿と思っている。

昨今、生前葬を行なう人は増えてきているらしいが、生前葬に出陣式(第二の生の誕生会)を行なう人は私が最初ではないだろうか。 それは私が考えたというか、成り行きでそうなったのだ。
ちょうど1年前に、個室納骨堂を南麻布の瑞華院・了聞に求めた。
近い将来、祖父・祖母・父が眠っている能登の墓を墓じまいして、了聞が小林家の墓にする予定だ。もう私もそんな歳になったのだ。ちょうど古稀(70歳)がいい区切りの歳だったと思っている。

人生は四季に擬えられる。
私の今の季節は春夏秋冬のいつなんだろうと思うと、既に春夏は過ぎ、今は秋なんだと思う。
秋といえば実りの秋、人生の集大成をする秋、その秋は、「たわわに実る秋」でありたいものだ。そして、そのためにこそ、これからの人生は下り坂でない上り坂の人生でありたいと思う。
そのための区切りが生前葬&出陣式だったのだ(人生の冬は第一の生の誕生から成人の20歳まで。我が人生は如何にあるべきかと暗中模索する20年が人生の冬だ。そして、人生の光明を見出して漸く春が到来する)。 そういう意味で、私のこれから半世紀は集大成の「実りの秋」なのだ。

そして、私の実りの秋は実に多忙だ。想像以上に多忙になってきた。
戒名の『不動院重陽博愛居士』の名の通り、陽のエネルギーを持った人たち(重陽の人たち)が私の周りに集まってきてくださる。そして、その人たちに愛を広(博)めていくのが私の第二の生のミッションなのだ。

昨日は陽のエネルギーを持った人たちが懇親の席をつくってくださった。(株)グラシアスさんだ。松本社長をはじめとした役職員の方々とザックバランな先の展望ある話をした。そして、世の中に愛を広めていこうと話は盛りに盛り上がった。

私の周りに集まってきてくださるOUEN Companyの皆さんは陽のエネルギーを持った人たちだ。その人たち同士を繋ぐ蝶番が私の役目になる。Win Win Win Win Winと Winの輪(環)はどんどん広がっていく。愛が広がっていく。

私は第二の生の本名である戒名の通りの人間でありたいと思う。
いただいた名に恥じることのない第二の生を送りたいと思うものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

「何があってもいいことばかり」と思うことだ。

「因果応報」「善因善果」「悪因悪果」いずれも、原因と結果は深いは結び付きがあるという人生の法則を謳った四字熟語である。そして、これは正に真実である。

人生70年も生きていると「人生は七転八倒の連続」と思うが、真面目に真っ直ぐに生きていれば、全ての出来事は善き方向に進んでいるのだと思うに至るものだ。

「苦は楽の種」という諺があるが、我に降りかかってくる苦は自らを磨く磨き砂だ。現実に我が身に起こると、なかなかそのように思えないものだが、ここはちょっと無理をしてでも思うようにすれば良い展開が待っている。

昨日はSeed Design Office の小山社長同行で関東建設工業の松島専務を訪問したが、このセッティングはいくつかの偶然があっての昨日の出会いに至ったものだ。
小山社長は「私は真面目に真っ直ぐにビジネスをしているので、今日の出会いはその証左ではないかと思います。小林団長との出会いも同様です。このご縁を大切にしていきたいと思います」と仰っていた。 天道に沿って生きる人に幸運の女神は囁く。そして、それは現実に体験することで確信にまで至る。

また、「何でこんなことが起こるのか」という災難が突然降りかかってくることがある。こちとら、何も悪いことはしていない。「真面目に真っ直ぐ生きているのにどうしてだ」と天を恨みたくなることが起こることがある。
どうしたらいいのだろう。落ち着いて、冷静になってこの災難を何としてでも乗り越えることしかない。逃げては負け犬になってしまう。この苦は磨き砂、楽の種と思うことだ。思えなくても思おうとして、行動に移すことだ。さすれば、必ず、やがて光明は見えてくる。

人生にはいろいろなことが起こる。いずれも、昨日私に起こったことだ。ただ、人生、前向きに生きていこうと思う。

昨夜は7時前に就寝したせいか、2時前には目覚めて眠ることができない。さりとて、早朝ウォーキングの気分にもならない。こんな時は無理してウォーキングをすることは止めにしよう。起きて事務所に出かけ読書をする。少し睡魔が襲ってきたところで、1時間でも長椅子で仮眠をしよう。

今日から3連チャンで夜の接待がある。体調を万全にして、あまりお酒を飲むことは控えよう。
「酒は百薬の長」とは酒飲みの言い訳にしか過ぎないらしい。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

出張がない1週間

1週間の始まりである。今朝はうつらうつらしながら5時前まで布団で横になっていた。
いつもは昨朝のようにガバッと起きて事務所に出かけウォーキングなのだが、今朝はあまり気が乗らない。身体が疲れているのか、熟睡できなかったのか。こんな日もある。 「無理はよそうぜ、体に悪い」ということで、起きて事務所に出かけ、昨日買った本3冊の「まえがき」を読む。
鴻上さんのものも藤原先生のものもいずれもなかなか面白く、それぞれの中身を読みたくさせる「まえがき」だ。やはり、文章の力か、その人の人間性と哲学と経験なのだろう。

昨日は買ったばかりの「70歳が老化の分かれ道」〜若さを持続する人、一気に衰える人〜を通読した。帰宅して「この本は参考になる。読んでみたらいい」と妻に渡した。

私は生まれ変わったのだから、「若さを持続する」というよりも「若さそのもの」なのだが、それは精神のみだ。現実は今朝のようにどうしても気が乗らない日もある。
きっと歳のせい、体力の問題だと思うが、それを「自分は生まれ変わってゼロからのスタートをしたのだから、気力でカヴァーできるのだ」と身体に相談せずに無理を重ねてしまうととんでもないことになってしまう。現実、もうそんな歳ではないのだ。

ソクラテスの”汝自身を知れ”の箴言通り、自分は古稀であるという現実を客観的に見つめることで、それなりの賢い対処法を考え実行することが肝要なのだ。それが古稀になった人間の知恵ということだろう。
そして、心と身体のバランスを取りながら、まずはあと10年(80歳まで)、10年経って、その時の体力と知恵のバランスであと10年、90歳まで。この繰り返しで、100歳、110歳、120歳まで行ければそれは幸せだ。 どこまで行くことができるか。肉体と精神の総和が100だから、その比率はどんどん変化していく。
そして肉体がゼロになった時がこの世とおさらはする時ということ。肉体は下り坂であるから、精神は必ず上り坂でなければバランスは取れない。そして、その精神のピークになったところで、この世とお別れするということ。その精神は、素直で真っ直ぐでありたい。

今週のスケジュールを見ると、珍しく出張なしの1週間だ。しかし、夜の飲み会は火水木と3連チャン。そして、金曜日には合氣道がある。
土曜日は、久しぶりにOUEN塾OBの江崎君が、お盆は福岡に里帰りしたというのでお土産を持ってきてくれる。私のほうが福岡にはよく行っているのにだ。こんなちょっとしたことが嬉しい。ランチでも一緒にしよう。 そして、日曜日は、八丁堀のエビサン整体院で体調のチェックだ。あと50年と思うと多方面から体調のチェックは不可欠なのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)