名を意識して生きること

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生前葬を行ない戒名を授かって明らかに変わったことがある。
それは「名は体を表す」ことを身を以て実感したことであり、名に恥じない生き方をしなければならないと自然に思うようになったことである。

生まれた時に授かった名は、親が付けてくれた。私も3人の子の親である。それぞれ、想いを持って名付けた。
私が小学校の頃だったか、「自分の名前の由来」を親に聞くなどして作文するようにと先生に言われたことを思い出す。
家に帰って聞いたところ、「博重」と言う名は、近所で一目置く教養のある人に付けてもらったものだと言われた。
「博」は博学とか博識とか、広く学問を学び、知識豊かな人間になるようにと言う想いであり、「重」は、どっしりとしてぶれない一本筋が通ったポリシーをもった人間になるようにと言う想いだとか。

しかし、私はそんなことを意識して生きてこなかった。自分の思うまま、そのままの自然体で生きてきたように思う。

協調性があるようで、何かおかしいと思ったことは妥協ができない。つい突っかかってしまう。短気なところがあり、我慢ができない性格であり、それが傲慢に見えるところもある。 そんなことで、21年間勤めた銀行をあっさり辞めてしまった。そうするしかないように自分を追いやってしまったから後に引き下がることができなかった。 今は後悔はしていないが、50歳前後で壁にぶち当たった時は、もう一度銀行に戻れないものかと深い後悔をしたこともある。

稲盛さんは「6つの精進」の3つ目に「毎日の反省」、6つ目に「感性的な悩みをしない」と説いていらっしゃる。
それの意味するところは、「反省はしても後悔はするな」と言うことであり、「後悔して悩むことは感性的な悩みであり、何の益もない。神ならぬ人間であるから、人間は完全無欠というわけにはいかない。間々、間違ったことはするものだから、それをしっかりと反省して、これからの人生に活かすことが大事であり、後悔することは全く意味がない」と言うことだろう。 私はこの「6つの精進」で救われたのだが、今は、名に恥じない生き方をしてきていなかった自分を恥じて反省している。

しかし、生まれ変わった第二の生はそうではない。戒名という本名を仏様から授けていただいたのだ。
第一の生での経験を活かして、その名に恥じない生き方をすることができるし、していこうと思う。

私の周りには沢山の陽のエネルギーが集まってくる。私がそのような「できた人間」になることで、陽のエネルギーはどんどん集まってきて極大になる。「重陽」とは「陽が重なる」という意味で、心清きエネルギーが極大になるのだ。 その集まってきた「心清き陽の人たち」に愛を広めることが「博愛」ということだ。

私はこの「重陽博愛」の名を絶えず意識して、自然体で物事に取り組んでいくことが少しずつできるようになってきたように思う。心穏やかに生きていくことができるように思っている。

今の私には、この本名(戒名)に恥じない生き方を貫くレベルにはまだまだ迂遠ではあるが、そのような人間になろうと努力精進していくことで、そのようになっていくように思う。

絶えず、本名を意識して生きることが大切だと言うことだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)

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