「七朋会」のこと

私の生前葬&出陣式はサポートしていただいた方々を含め150名強の皆さんがお集まりいただいた。おかげさまで、実に心温まるだけではなく、これからの発展性ある有意義なイベントになった。

生前葬からご参加いただいたのは、高校や大学からお付き合いをしている気のおけない仲間たちが中心だった。その中でも応援団仲間が多い。東京六大学と国立七大学だ。

東京六大学は、早稲田・慶應・明治・法政・立教・東大の六大学。国立七大学は旧帝大の北大・東北大・東大・名大・京大・阪大・九大の七大学。

東京六大学応援団は東京六大学野球の応援活動に端を発している。戦前、東大に応援団はなかった。東京六大学野球で東大が慶應と首位を争い2位になったことが切っ掛けになって、東大応援部は昭和22年に創部された。そして、その年に早慶明法立の五代学応援団に東大が加わり、東京六大学応援団連盟が設立されたのだ。
そのようなわけで、東京六大学応援団連盟のコア活動は、大学野球のメッカである明治神宮球場で行われる東京六大学野球の春秋リーグ戦になっている。そのゆえに、東京六大学応援団連盟の団結力は強固なものがある。

一方、国立七大学応援団は、戦後に始まった国立七大学総合体育大会がスタートだ。この大会は今年で還暦を迎えることになるのだろうか。
戦前、日本には九つの帝国大学があった。北から北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州の七大学。それに加え、ソウルの京城帝国大学と台北の台湾帝国大学。戦後は帝国大学は日本の七大学になり、現在の国立七大学になっている。 そして、各大学の応援団は戦後にできた。東大の昭和22年創立が一番早い。その点、応援団の歴史は東京六大学が圧倒的に古い。
しかし、国立七大学応援団は旧制高校の伝統を引き継いでいるようなところがあり、校歌・学生歌・応援歌に加え旧制高校寮歌も応援の際には歌い応援する。

東京六大学応援団は連盟で固く結びついているが、国立七大学応援団は活動のテリトリーがそれぞれの地方であり、集まる機会は年に一回の毎夏の七大戦の時(約1週間)だけだ。勿論、東大の場合は双青戦と称した東大対京大の対抗戦があり、七大学の中では交流は多いが東京六大学の比ではない。 そんなことで、東大はどうしても東京六大学にウェイトを掛けてしまう。

私の高校は金沢大学附属高校だったが、この高校は旧制第四高校の流れがあったのだろうか、私の現役時代は夏に校庭でファイヤーストームが行われた。ファイヤーストームでは皆んなで旧制高校寮歌を歌ったりフォークソングを歌ったりした。生徒は寮歌を聴いたことはないので、その準備活動として、生徒たちが春から学校の屋上に集まり、3年生の指導で寮歌の歌唱指導があった。そんなことで、私は旧制高校の雰囲気が感じられる国立七大学応援団に親近感を持っていた。 活動は東京六大学応援が中心だが、心は国立七大学応援団に引かれていたということだ。

団結力が乏しい国立七大学応援団を何とか強い結び付きにしようと思って、昭和50年卒の同期とつくったのが七朋会なる同期会だった。一年にたった1週間の付き合いでも、同じ想いで活動している仲間たちだ。朋友として長く付き合いたいとの想いだ。そんなつながりの仲間たちが私の生前葬&出陣式に集まってくれたのだ。

東北大学の木島さんが言い出しっぺだろうか。生前葬&出陣式の事前集まりの中で、七朋会の記録を残そう、七大学応援団の歴史を残そうと言う話が自然と湧いて出てきた。名付けて「七大学応援団物語〜伝聞録〜」だ。

国立七大学総合体育大会(七大戦)は第一回が開催されて今年で還暦を迎えることになるのだろうか。
この大会は毎夏に一年毎に変わる主管校の地元で開催される体育大会だ。応援団は演舞会やパレード、交流コンパ等で応援合戦を繰り広げる。

また、七朋会は同期会から、応援団OB・OGの自由参加の会になり、それに加えて、応援団を愛する人たちも自由に参加できる会になった。今は毎年11月の最終土曜日に東大駒場食堂にて100名以上が参集し校歌・学生歌・応援歌・寮歌を高歌放吟する。

7月9日(土)に、そんなことを文書で残す編集委員会の立ち上げを私の事務所で行なうことになった。

皆んな歳は取ったが気持ちは若い。”青春時代よ再び”というところだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)