「人生」と「応援」を追求する。

「人生」とは何か。
「応援」とは何か。

第一の人生を閉じる時に、「人生」や「応援」について、じっくりと考える。人間、ダラダラと生きていても生きていることが惰性になってしまって締まりが良くない。その意味で、人生を一旦区切り、新たな気持ちで第二の生を生き直すことは大いに意味があることだ。

生前葬&出陣式を明後日に控えて、皆さんへのご挨拶を読み直す。
もう何十回推敲を重ねただろうか。追加修正の段階は遠に過ぎて、その内容を第二の人生の決意表明として血肉にするための読み直しだ。

「人生」とは何か。
自らの意思でこの世に生まれてきたわけではない。何処かに「魂」という精神があって、その「魂」のレベルを更にブラッシュアップさせるために、この世という修行の場に天は送り出してくれたのだろう。すなわち、この世は「魂」を磨く修行の道場なのだ。

生まれ落ちて、この世のことは何も分からず、七転八倒しながら、光明を求めて日々前に進む。世の中は修行の場であるから、心が汚れた人間も少なからず存在する。壁にぶつかりながら、この人は心が清い人か心が汚れた人か、少しずつ見分けることができてくる。濁世に染まって心が汚れてしまう人間もいるが、反対にそれによって一層心が清くなる人間もいる。泥水に浸かっていてもそれに染まらない「絹のハンカチ」になることだ。苦を磨き砂にすることだ。

中国の五行思想では、人生を春夏秋冬に準えているが、人生は黒い冬(玄冬)から始まるというのが奥深い。暗中模索の玄冬時代から、青い青春と赤い朱夏を経て、少しずつ成長しながら「実りの秋」の白秋を迎える。人生を完結させるのが白秋の時期だ。 白秋の時代に有終の美を飾ることができれば、その人の人生は幸せだったと言うことだろう。

白秋時代にどんな実がなるだろうか。冬春夏の3つの季節での「自分との闘い」は正当だったのだろうか。真っ直ぐだっただろうか。 秋を生きるにあたり、この冬春夏に何を成してきたのかが秋の季節を生きる基礎になる。

私は冬春夏で第一の生を終え、これから第二の生の秋を生きようとしている。

応援とは何か。
私は第一の生で応援の真髄を掴もうと生きてきた。そして、これが応援なんだなと思うに至った。私の「応援哲学」だ。
応援の真髄は、人のために尽くすことだ。人のために心から応援する。心だけではなく、身体を張って応援する。相手からもらう「応援してくれてありがとう」という一言が応援する見返りだ。その一言が応援する者に「やって良かった」と思わせる。応援とは、そのキャッチボールだ。 応援して相手に喜んでいただくことでこちらの心は豊かになり温かくなる。
自分のために人を応援する。究極の利己は利他に通じる。中途半端な利己ではそれは世に言う「利己主義」に終わってしまう。究極の利己主義を追求することだ。 利己と利他は真逆にあるものではない。利己と利他は隣り合わせに座っている。矛盾は決して矛盾ではない。

人生とは「幸せ」を追求する道程だろう。「幸せ」のために、人は人を応援するのではないか。
応援は幸せに通じる特効薬だ。

小林 博重