形から入って心に至る。

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「形から入って心に至る」という名言がある。その逆が、水前寺清子の「いっぽんどっこの唄」に歌われる「ボロは着てても心の錦」だろうか。 形から入るのか中身から磨くのか。いずれが早く「できる人間」ができるのだろうか。

「できる人間」になろうと思い、素直に努力することが大切なのであり、その人が、形から入って心を高めることがやりやすいなら素直にそのようにすることだろうし、心を高めることが目的であり、それを思い違いして形だけで満足する人は心がボロの人間だということだろう。

『人間は「幸せを追求する動物」であり、そのためには「心を高める」ことが必須なのだ』ということを肝に叩き込むことだ。
絶えず原点に立ち返り、本質志向をすることが大切だと思う。

古稀を機に人生をリセットする。そして、結果オーライ、頭を丸めて僧形になる。まず、形から入る。これは結構コスパは高いようだ。

この前もちょっとトラブルになったことがあった。
相手が喧嘩腰でメールと電話でクレームを付けてきた。こちらはそんな失礼なことをした覚えはない。こちらもカチンと来た。
いままでなら、こちらは悪くはないと思っているから、「売られた喧嘩は買うのが礼儀」と思って、こちらもすぐに、闘いモードに入ってしまう。 それであれば結局のところ「喧嘩両成敗」にならざるを得ない。いくらこちらが正しくても「手負いの犬」になってしまう。

まだまだ人間ができていないから、一旦心は喧嘩腰になってしまうのは致し方ないが、ここでグッと堪えて、「頭を丸めて僧形になったのだから、喧嘩は良くない。グッと我慢だ。どうしたら分かってくれるだろうか。誤解が解けるだろうか。こちらにも至らないことがなかっただろうか。100%相手様が悪いというわけではないだろう。穏やかに話をすることができないだろうか」と思うことにする。 相手との話し合いの時間までは少し不安な気持ちになるが、これも修行、訓練・訓練と思って、心を落ち着けて話し合いに臨む。
案の定、相手は喧嘩腰に話してくるが、それに上乗りしてはいけないと思って穏やかに話す。そうすると相手も次第に穏やかなトーンになって誤解だったと分かってくれる。こちらも至らないところがあったと詫びる。別れる時には、笑いながら何気ない雑談をするところまで行った。

これも頭を丸めた効用だ。
これが私の「形から入り心に至る」実践第1号だ。

小林 博重

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