第二生を丸坊主で通す。

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3時前に起きる。それでも、床に就いたのが20時だから7時間寝ていることになる。妻は私の体内時計が4時間くらい早く進んでいると言う。マイペース、マイペースだ。マイペースはストレスがなくて最高だ。楽しい人生を送ることができる。
これからの第二生は、このマイペースを通し続けよう(第一生もなんだかんだ言ってもマイペースであったことは変わりはないが、それが時としてトラブルになったりストレスになったりした。第二生はストレスなしのマイペースと行きたいものだ)。

東京の今日の天候は曇り。気温は最高8°、最低0°。丸坊主の頭は寒い。頭の傷はほぼ治り、明日の抜糸で完璧に正常になる。
改めて不幸中の幸いと思う。第一生の締め括りとしては「終わり良ければ全て良し」。そして、第二生の順調なスタートを切ることができたことを幸せに思う。 「実に私は運がいい」

丸坊主は、大学4年の応援部の時以来だから、半世紀近く前のことだ。
私は物心ついた頃から丸坊主だった。掘建小屋の保育園は能登部神社の一角にあったが、神社の裏の廟まで登る石階段から転げ落ちて頭が血だらけになったことがある。この度、丸坊主にして、その時の傷跡が表に出てきて、否が応でも5歳の行状を思い出した。 小中高はずっと丸坊主で通した。小学生の時の仇名は「青ずべ」。丸坊主で頭が青かったからだ。
高校では丸坊主は私だけだった。文化祭や予餞会での私が主役の『寸劇王将』や『巨人の星』を思い出す。
大学時代もほとんど丸坊主で通した。1年の時は、ベレー帽を被って通学した。クラスメイトには、その時誘拐犯で騒がれていた大久保清がベレー帽を被っていたこともあり、私は「大久保清」と呼ばれていた。あまりいい仇名ではない。
大学4年は応援部主将(団長)で、東京六大学野球に江川選手をはじめ甲子園球児が東大以外の5大学に入学したこともあり、黒子である応援団(部)もマスコミでチヤホヤされた。
「銀座ナイトナイト」(土居まさると田中真理が司会)で六大学応援団の大声コンテストに出たり、「ベルトクイズQ&Q」(押坂忍が司会)にも出た。「週刊ベースボール」には、東京六大学野球特集で「東大の丸坊主応援団長」と写真付きで紹介された。また、当時のテレビ神奈川は東京六大学野球の全ての試合を放送していたが、応援団席での応援団長インタビューもその中に仕組まれており、私もインタビューされてテレビ放映された。ラジオにも出演した記憶もある。 「丸坊主応援団長」はそれなりにアピールするところがあったのだろう。

社会人になって、それも銀行員で丸坊主というわけにはいかない。もう丸坊主には一生縁がないと思っていたが、さにあらず、第二生は丸坊主が私のセールスポイントになるとは。 今まで全てを想定外で生きてきた人間としては、それもあり、それが天のご意志と思ってありがたく丸坊主に徹していこうと思う。

小林 博重

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