エリート街道を歩かなかった人間の想い

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「転んでもただでは起きない」と言う諺がある。私はこの諺を真実だと思う。そして、私のように、この諺が心から真実だと思う人は決してエリートではないのだろう。 エリートと呼ばれる人は、ちょっと躓くことはあっても、”すってんころりん”と大転びに転ぶことはなかっただろうから。

私と言えば、人さまから見たら、「小林自身の意思で”すってんころりん”と大転びに転んだ」と思われても不思議ではない人生を送ってきたように思う。私自身からなので、誰も恨むことはしないし、私が歩いてきた人生全てを前向きに捉えている。
本当のエリートは、ちょっと躓いても大転びに転んだことのない人生を送ってきたから、振り返ってみると、その人生はさほど面白くなかったのではないか。そして、人の気持ちを心から思いやることができない人間になってしまうのではないか。今でいう”忖度”だけは誰よりも上手にすることで生きてきた人なのではないか。ほとんどのエリートはそのような人たちなのではないか。超一流のエリートを除いて。

「若いときの苦労は買ってでもしろ」と言う諺がある。
「苦労を買う」とはなかなかできることではない。自分自身がどうしてもこの道を歩きたいと思い、人の反対を押し切ってまでその道を歩いていくのであって、その道の先には薔薇色の風景が展開されていると思ってその道を歩いていくのであって、それが結果として苦労惨憺たる道だったということなのだ。自分から苦労を買ってまでもしているわけではない。 しかし、後から「苦を楽しむ」心境になることは人間の成長にとって不可欠なことではないかと思う。

私は、私の前途にエリート街道が用意されていたとは思っていないが、私は「運がいい人間」だから、自ずとエリート街道と言われる道を歩いていくことができたのかもしれない。しかし、そうでない道を自分の意思で歩いて今日まで生きてきたのは、天が「この道がお前のエリート街道なのだ」とお考えになり、そのように私を歩かせたのだろうと思う。それが「宇宙の大流」なのだと思う。

特に昨年来、私の周りに起こったことで、その天の意思を身をもって知ることができた。そして、昨年はちょうど私が数え70歳の古稀の歳だ。人生の総仕上げとして、第一の生の締めをしたのだと思う(今年の6月4日の生前葬はそのための儀式だ)。厳かに執り行いたい。そして、颯爽と第二の生を生き抜きたいと思う。

第3回目のコロナワクチンを接種した夜、床についてそんなことを考えた。

小林 博重

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