ふるさとはとおきにありておもふもの

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東京に大雪警報が発令された。昨日は午後から初雪が降り、最高気温は3度。10階の事務所から見る外は横殴りの雪。
さぞかし今朝は雪が路面を覆っているかと思いきや、青山通りは車の通行で道路脇しか雪はなく、歩道も溶けた雪が薄ら凍っているくらいで、気をつけて歩けばどうということはない。これが東京の大雪警報なのだ。

コロナの感染者急増でのマスコミの大騒ぎも、この大雪警報も、日本は「転ばぬ先の杖」よろしく、過敏に反応するところがある。
アメリカは一日で100万人がオミクロン株に感染するなど、外国は日本の比ではない。よく受け入れ態勢ができているなと思うが、何事も、日本のようなちょっとビビリのほうがいいのかもしれない。 人間もビビリの人間が経験を積んで大物になっていくんだろう。

大雪と言えば、私が生まれた能登は雪国の北陸地方だが、富山や加賀や福井のような大雪の地域ではない。
能登には高い山がないため、シベリア颪の颪風(おろしかぜ)は越中富山の立山連峰にぶつかり、富山に大雪を降らせるのだ。能登はさほどではない。 しかし、昭和39年の豪雪の時は能登でも大雪で参ったことを思い出す。
私が小学5年生だったろうか。この時、可愛がっていたスピッツのマリが雪で塞がれた狭い道路でトラックに轢かれて死んだ。その時の山本運送の運転手の顔を私は今でもはっきり覚えている。 祖母は自宅で「角打ち」のようなことをしていて、その運転手はお客の一人だったのだ。子どもの頃の思い出はいいことも悪いことも鮮明に覚えているものだ。

39年の豪雪では、自宅から道路に出るために雪の階段を作った。向いの家も同様なことをしたので、田舎の狭い町道はせいぜい幅1mくらいだったろうか。

また、能登の冬と言えば、私はなぜか高校3年生の冬を思い出す。今はどうか知らないが、私の学年の時の金大附属高校は、高校3年生の3学期は受験の時期ということもあって週一の登校でも許されていた。
私は金沢寺町の下宿を引き払い、鳥屋町良川(現、中能登町)の伯父伯母の家にお世話になっていた。良川は私の実家の鹿西町(現、中能登町)の隣町だったが、実家では受験モードにはならないと思って、良川の伯父伯母にお願いして下宿させてもらったのだ。
その良川駅(七尾線)から週一で金沢に通った。受験モードとは言っても、私はその非日常を楽しんでいたのだろう。防寒着を着て、週一の登校は遊び感覚だった。週に一回、同級生たちに会うことを楽しみにしていたのだ。

3月3日は東大の受験日だったが、その2週間前から六本木の遠い親戚のお宅にお世話になった。もう受験勉強してもしようがない。「何よりも田舎っぺは東京に慣れること」だと思って、六本木の子どもたちと2週間遊んでいた。子どもたちが「お兄ちゃん、何しに東京に来たの?」というほど、受験モードとは縁のない2週間を過ごしたことを思い出す。

東京の空は青く高い。能登や金沢の空は灰色で低い。やはり、「東京は日本のキャピタル」だと、祖母がエノケンの歌を歌っていたことを思い出して、妙に納得したものだ。

「ふるさとはとおきにありておもふもの」と金沢が生んだ詩人室生犀星は詠った。
私にとってやはり「ふるさとはとおきにある」ものだ。「とおきにありて」ふるさとを思う。私を育ててくれた祖父母が生きた特別なところだ。

金沢の同級生は、「石川県を思うなら石川県に住んだらいい。東京から石川県を思うなんて、それはほんまもんじゃない」と言うが、それもほんと。私が思うこともほんとなのだ。

私の「遠い東京から能登や金沢を思う」ことが、私が「ふるさとを思う」ことなのだ。
北陸新幹線の東京⇄金沢間は2時間半。私の大学時代は夜行列車「能登」や「越前」で帰ることが多かったから、8時間以上はかかっていた。遠い昔、半世紀前のことだ。

それだけ歳を取ったと言うこと。しかし、私はあと半世紀、ふるさとを思い、ふるさと創生のために精進しようと思う。

小林 博重