私の人生(春夏秋冬120年)を語る/信交会(安田信託銀行OB・OG会)の会 報『つどい 新春号』に投稿

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人生は春夏秋冬に擬せられる。私は昨年、数え70歳の古稀を迎えた。振り返れば、あっという間の70年だった。気持ちは青年だが、身体は昭和27年製の中古車だ。

人生100年時代。私自身はそれを120年と設定している。私にはあと50年余りの人生がある。

しかし、生きとし生けるものには必ず避けて通ることができない『死』というものがある。「絶えず死を意識して生きる」「生死という両極端を併せ持つ人生観を持って生きる」ことが、生をより深く充実したものにする。

今ここに、私の70年の来し方を振り返り、これから50年の行く末を展望してみることで、「幸せな人生とは何か」を考える縁(よすが)になれば幸甚と思う。

  1. 春=青春(0歳~45歳)

(1)高校まで

石川県能登半島の中能登町に生を享けた。七尾市と羽咋市に挟まれた田舎町だ。

父母が自宅とは離れたところで自営業を営んでいたこともあり、中学3年生まで祖父母に育てられた。内孫は私一人であり、目に入れても痛くないほど大事に育てられたと思う。

祖母は「品がある、行儀に厳しい人」だった。それもそのはず、結婚前は広尾のお屋敷で奉公し、行儀見習いをしていたとか。いつも小学校の授業参観は祖母が来てくれた。そのおりの先生との応対は、これが田舎のおばあさんかと思うほど、凛として堂々たるものだった。今でも祖母の姿を誇らしく思い出す。

一方、祖父は慈愛に満ちて心優しい人だった。祖母を「おかっつぁま」と呼んでいた。「おかっつぁま」とは標準語で「お母さま」の意だ。男尊女卑の能登の田舎だ。私はちょっと恥ずかしいところもあったが、なぜか誇らしい気持ちにもなった。

他方、祖父には「これぞ明治の男」と思わせる強く逞しいところがあった。

日露が大陸でまさに衝突するかという時に、祖父は金沢の第七師団に入隊。旅順に出征し、二百三高地の戦いで露軍と戦った。一度は露軍に奪われた軍旗を奪い返して、攻略した堡塁を更に死守した。その功績で金鵄勲章を受章する栄に浴したのだ。更に、上等兵から軍曹に昇格する内命を受けた。

しかし、祖父は学校に行っておらず、読み書きができないことを理由にその内命を辞退した。「読み書きができない人間は人の上には立つべきではない」と、そう思って辞退したのだと。

「ぼう(私のこと)、学問をせい。戦争に負けた今、陸軍士官学校も海軍兵学校もない日本になった。その代わり、東大に入って日本のために尽くす人間になれ」と。また、2つの胡桃をことあるごとに擦り合わせて磨いていた。「玉磨かざれば光なしだ。勉強せいよ」とも語ってくれた。この胡桃はいつも私の書斎の壁に掛けてある。胡桃は、祖父の唯一の形見だ。何物にも代えがたい『心の形見』だ。私は、この祖父の言葉を決して忘れない。

そして、私は「東大一直線」で、自宅から通えない金沢大学附属高校に進学した。

高校3年生の夏、全国模擬試験でトップになった。全くの「まぐれ」でしかないが、よくぞトップになったものだ。

祖父は老衰で、あと何日の命かという時だ。私が金沢の下宿から能登の実家に帰り、祖父母にその報告をした。その時だ。ずっと寝たきりだった祖父が急に「万歳!万歳!」と両手を挙げて叫んだのだ。祖父は私に言った。お不動さまが山の上から石を転がしてくださって、その石が祖父の胸に当たり、自ずと手が挙がったのだと。日露戦役のおりも、鉄兜に弾丸の跡があったのに祖父は全く無傷だったそうな。これもお不動さまがお守りいただいたのだと。

中能登町の長楽寺(真言宗別格本山)には、眉丈山の中腹にお不動さまが建立されている。祖父はその建立に際し献身的な努力をした。祖父のお不動さまへの想いは日露戦役に由来するのだ。

また、祖父は定期的にお不動さまの参道を掃き清めていたが、私も数えきれないほど祖父に付き添って、その手伝いをしたものだ。

私の想いの中にそんな祖父は生きている。一時は、「大学は京大」と思ったが、「東大に入れ」が祖父の遺言のような気がして東大を受験することにした。そして、お不動さまのご加護、祖父母のおかげもあって、東大に合格できた。

(2)東大時代

私にとって東大と言えば法学部ではない。応援部が私の大学生活の全てと言っていい。その点では祖父の期待に応えたとは言い難いが、応援部で学んだ「生きる存念」が私の『応援哲学』になっている。

東大応援部の精神である3Sスピリッツは、昭和31年卒部の中島清成さん(元朝日新聞社)が創られたものだ。3Sとは、Service、Sacrifice、Studyだ。私はそれをService=社会貢献、Sacrifice=活私奉公、Study=人生修養と意訳している。この3Sスピリッツは、NPO OUEN JapanとMap(私の個人会社)のフィロソフィでもある。

応援とは「人を思いやり、人のために尽くす行為」だ。応援とは「キャッチボール」だ。応援はいいボールを投げること。相手のことを思って応援すれば、相手は「ありがとう」と感謝をしてくれる。それが相手から投げ返されるボールだ。好球には好球が返ってくる。相手に喜ばれる好球を投げること、それが応援の真髄であり、醍醐味だ。

(3)安田信託銀行時代

昭和51年4月、安田信託銀行に入社した。公務員試験に落ちて文京区西片の下宿でぶらぶらしていた時、応援部の先輩である井口一弘さんからお電話をいただいた。応援部の現役から「博重さんが公務員試験に落ちて就職をどうしようか迷っている」との話を聞いたからだと。

私は、三和銀行(現三菱UFJ銀行)に内々定していた(らしい)。銀行員には向いていないと思っていた私は、全く三和銀行には入る気はなかった(私は銀行員に限らず、宮仕えには不向きな人間だと今は思っている)。

教養学部時代、駒場寮に住んでいた時、志村嘉一郎さん(朝日新聞社、応援部の先輩)が今里広記さんを寮に連れてこられて、その夜に松濤の今里さんのご自宅で大層ご馳走になったことがあった。今里さんと言えば「財界幹事長」「財界官房長官」の異名を取った財界の大立者だ。日本精工社長をされていた。「そうだ、今里さんの日本精工に入れていただけないだろうか」と志村さんにご相談したばかりの時に井口さんからお電話があったのだ。

井口さんから「とにかく、人事部に会ってみろ」とご紹介されたのが橋本世紀男さんだった。橋本さんは、私が銀行に入りたくないとすぐ感じられたのだろう。

「小林君、安田は銀行じゃない。信託だ。銀行ではトップを頭取というが、安田は社長という」と。

いくら金融が無知の私でも「安田は信託銀行だから銀行」ということくらいは分かる。また、三井銀行のトップは社長だ。しかし、そんないい加減(好い加減)なリクルートをする人事部は私に合っているのではないかと思った。それで就職を安田に決めたのだ(このあと、私が安田に内々定したというので、三和の先輩たちから呼び出されて、人事課長に懇々と説得されたのには、ありがたかったが参ってしまった)。

案の定、安田は銀行だったが、私にはとても居心地がいい会社だった。それで21年間、楽しく勤めることができたと思う。妻に巡り会ったし、たくさんの友人もできた。

[渋谷→神戸→人事教育→人事→新宿→札幌→本店営業→法人]と8部署を経験させていただいた。44歳6か月で中途退職したが、私の就活はいい加減の様で好い加減だった。その就活は間違っていなかったと思っている。

(4)私の「春=青春」の総括

能登に生を享け、安田を退職するまでの44年6か月。この45年が私の春=青春だ。皆さんに可愛がっていただいて何不自由なく自由気儘に人生をエンジョイした。しかし、それはいわば生簀(いけす)の中の自由だったのではないか。冬の日本海では全く通用しない。

本当の自由とは、揺るぎない哲学に裏打ちされた自由でなければならない。厳しさを乗り越え、人生を哲学することで本当の自由を勝ち取ることができるのだ。安田を辞めて、初めてそのことに気が付いた。

  1. 夏=朱夏(45歳~70歳)

(1)波乱万丈の25年

安田を辞めてからの45歳から70歳迄の波乱万丈の25年だ。本店営業部時代、ベンチャービジネスの社長たちから稲盛和夫さんをご紹介いただいた。これが私の人生を180度変えた。コペルニクス的転回だ。「人生如何に生きるべきか」「私の生まれてきた意味は何か」と人間の根源に思いを致し生きていく『稲盛哲学』を知り、私の人生は180度変わったのだ。

しかし、経営の才が皆無の私が新しい人生にチャレンジすることは、妻にはリスクとしか感じなかっただろう。本当に妻には迷惑をかけたと思う。甘ちゃんが甘ちゃんなりに思い切り生きてきたが、思い切り生きさせてくれた妻には、いくら感謝しても感謝しすぎることはない。「お母さん、どうもありがとう」

会社を転々とし、Map(個人会社)とOUEN Japan(NPO)を立ち上げ、ミッションを模索し彷徨っていた。ミッションを自覚するには25年はあまりにも長い。人生80年時代であれば残された期間はあと10年しかないが、今は人生100年時代だ。健康に留意することで120歳まで生きることは不可能ではないだろう。

(2)稲盛さんから学んだこと

盛和塾の「6つの精進」が全てだ。

①誰にも負けない努力をする

②謙虚にして驕らず

③毎日の反省

④生きていることに感謝する

⑤善行、利他行を積む

⑥感性的な悩みをしない

(3)敬天愛人

西郷隆盛が愛した言葉だ。稲盛さんも座右の銘にされている。

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。天は人も我も、同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って、人を愛するなり」

これは渋沢栄一の『論語と算盤』にも通じる。全うな人生を送る人のところに利はついてくる。

また、坂本龍馬は言っている。「金よりも大事なものに評判というものがある。世間で大仕事を成すのにこれほど大事なものはない。金なんぞは、評判のあるところに集まってくるさ」と。

3.秋=白秋(70歳~100歳)

70歳から100歳までの30年だ。この秋のために春夏があった。私のミッションは、OUEN Japanのステージで果たしていきたいと思う。

(1)私のミッション

OUEN塾の学生をはじめとした若者たちと、彼らを応援してくださる人たち(OUEN Company)と、力を合わせ、私たちが、住み、学び、働く、「日本の地域創生」をサポートすることだ。

そのために、天から私に与えられた『得手』をフルに活かして、世のため人のために尽くそうと思う。そして、私の『得手』を「誰にも負けないもの=最高の武器」にすることだ。

(2)生前葬と出陣式

今年6月に、春夏の第一の生を締めくくる『生前葬』を南麻布了聞にて執り行う。そして、秋冬の第二の生のスタート『出陣式』を、OUEN Companyの皆さんをお呼びして、私の青春を燃やした神宮球場の向いに立つ日本青年館で開催したいと考えている。[小林博重]は私の第一の生の俗名であり、第二の生の戒名は、恐れ多いが祖父母たちと同じ『不動院』を頂戴したいと、瑞華院の福井住職にお願いしている。

なぜ生前葬なのか。私のような凡人は、生きている時にしか人のお役には立てないだろう。人生の締め括りの葬式も人のお役に立つイベントでありたい。

4.冬=玄冬(100歳~120歳)

20年の余生人生だ。いろいろ、人生の後輩たちに伝えていきたいことがあるだろう。悠々人生を送りながら、後輩たちの頑張りを見届けて、次の世に旅立つことができたらこの上ない幸せだ。

そして、あの世への旅立ちは、「家族水入らず」で執り行ってほしいと思う。

小林 博重