今日は私の第一の生の最期の日、明日は第二の生の生誕の 日。

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今日は令和3年師走の大晦日。私の数え70歳、古稀の最後の日であり、第一の生の最期の日になる。そして今、満69年2ヶ月の人生を振り返る。
順風満帆であり、波瀾万丈であり、紆余曲折の、思いのままに生きてきた、私にとっては面白い人生だったと思う。
この70年の第一の生の「損益計算書」はプラスマイナスゼロというところか。よくゼロで収まったものだと思う。
では、第二の生に引き継がれる「
人生の貸借対照表」はどうだろうか。
⑴資産の部
70年間、真面目に真っ直ぐに駆け抜けてきた人生だったが、生憎、現物資産の残高と言えるものは殆どない。その代わり、目に見えない「心の資産」は有り余るほど積み上がっている。
⑵負債の部
おかげさまで、他人さまにお借りしている借入金は、一時それなりのものがあったが、最終コーナーでなんとか返済することができた。
ただ、ここでも「心の負債」はないわけではない。人さまに恥じる負債は持ち合わせていないと思っているが、私に恨みを持っている人は全くいないというほど、私は完璧な人間ではない。「心」の問題は奥深で多くの襞があるものだからだ。
⑶純資産の部
資産から負債を引くと純資産だ。現物の部では、差し引き多少はプラスかもしれない。もっと、私の人間のレベルが高かったならば、たとえ経営の才はないとしてももう少しプラスの額は多かっただろう。この反省事項は、第ニの生を生きる肥やしとして、これから活きてくると思う。私の心懸け次第だ。
ありがたいことに、「心の純資産」はたんまりとある。この純資産をベースにして、第二の生を生き抜いていこうと思う。
俳人高浜虚子の年末年始の句に、「去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの」がある。何の変哲もない棒のようなものが去年と今年を貫いていると言う意味だが、その通り。今日は31日、昨日は30日、いずれも令和3年だ。しかし、明日は令和4年になり、来年だ。
しかし気分は改まる。棒のようなものが貫いているが、考えようによっては、今日と明日は違う世界であるとも言える。
今日は第一の生の命日。明日は第二の生の誕生日。明日から私は第二の生を生きるのだ。新しい自分の始まりだ。
そこには第一の生から貫いている棒のようなものがある(なければ何が第二の生かと思う。何が生前葬、何が出陣式だと言うことだ。生前葬や出陣式は、言わば、告別式であり、誕生日祝いということだろう)。
その棒のようなものとは、稲盛哲学に裏打ちされた私流の「応援哲学」なのだ。
第一の生で築き上げた「心の純資産」をベースに、第二の生で「応援哲学」を実りあるものにすることなのだ。
堂々たる50年の「応援人生」を生きていこうと思う。
小林 博重