「人を許す」ということ

昨夜、気のおけない仲間たちと、渋谷のJinnan Houseで開催されていた崔珉徑さん(ミンちゃん)の写真展(私のポートレートもあった)の打ち上げの会を開催した。彼女は、いつも終わった後は一人寂しく過ごしていたらしいが、今回はささやかな5人の慰労会だった。それでもミンちゃんは嬉しかったらしい。 今朝、ミンちゃんから私宛にお礼のメールが来た。ちょっとしたことで人は勇気づけられるものだ。異国の地で頑張っている人にはその想いは一層だろう。
29日には、ミンちゃんのアトリエに出向き、古稀の記念としてポートレートを撮影してもらおうと思う。
今月は私の第一の生の最後の月になる。69年間、私の春夏は山あり谷あり。実に多くの反省の日々であったが、現在の私が元気に頑張ることができているのも、失敗を糧にして一歩一歩、亀の歩みだが、前に進んでいることを思うと後悔のない人生だったと、支えていただいた皆さんに深く感謝したいと思う。
一生の区切りは人間を素直にさせる。そして後半生は、前半生の下駄を履いてのスタートゆえに、そのコスパは極めて高いものになるだろう。
そして、稲盛さんの自利利他、OUEN Japanの活私奉公は、少しずつ私の血肉になってきていると思うのだが、一つこれだけはまだまだその域に到達していないというか、その心境の奥深さをほとんど理解できないというものがある。
それはガンジーの以下の言葉だ。
「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ」
私には許すことができない人が一人ならずいる。また、私のことを許すことができないと思っている人もこの世にいるだろう。私は69年間、人を傷つけて生きてこなかったというほどおめでたい人間ではない。全ての人間は一つや二つ、人に許してもらえないことをしてきているのではないか。
そう考えると、相手を許すことができる強い人間は果たしてこの世にいるのだろうかと思う。
さしづめ、私は人を許すことができない弱い人間なのだと思うのだ。
相手を遠ざける、相手にしない、次元の違う人間だと思うことは、決して相手を許していることではない。生きている間はずっと許すことができないので、遠ざけたり相手にしなかったり、無視するのだ。「許す」ことは神の領域なのではないかとも思う。
それでも心穏やかに人と付き合う温かさを持ちたいと思うし、今はそこまで辿り着けば、人間が成長したのだと自分に言い聞かせている。
そして、世のため人のため、地域創生の一助となりたいと思う。その延長線に、「許す」という最高の次元があるのだろう。
小林 博重