今日は令和3年師走の大晦日。私の数え70歳、古稀の最後の日であり、第一の生の最期の日になる。そして今、満69年2ヶ月の人生を振り返る。
順風満帆であり、波瀾万丈であり、紆余曲折の、思いのままに生きてきた、私にとっては面白い人生だったと思う。
この70年の第一の生の「損益計算書」はプラスマイナスゼロというところか。よくゼロで収まったものだと思う。
では、第二の生に引き継がれる「
人生の貸借対照表」はどうだろうか。
⑴資産の部
70年間、真面目に真っ直ぐに駆け抜けてきた人生だったが、生憎、現物資産の残高と言えるものは殆どない。その代わり、目に見えない「心の資産」は有り余るほど積み上がっている。
⑵負債の部
おかげさまで、他人さまにお借りしている借入金は、一時それなりのものがあったが、最終コーナーでなんとか返済することができた。
ただ、ここでも「心の負債」はないわけではない。人さまに恥じる負債は持ち合わせていないと思っているが、私に恨みを持っている人は全くいないというほど、私は完璧な人間ではない。「心」の問題は奥深で多くの襞があるものだからだ。
⑶純資産の部
資産から負債を引くと純資産だ。現物の部では、差し引き多少はプラスかもしれない。もっと、私の人間のレベルが高かったならば、たとえ経営の才はないとしてももう少しプラスの額は多かっただろう。この反省事項は、第ニの生を生きる肥やしとして、これから活きてくると思う。私の心懸け次第だ。
ありがたいことに、「心の純資産」はたんまりとある。この純資産をベースにして、第二の生を生き抜いていこうと思う。
俳人高浜虚子の年末年始の句に、「去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの」がある。何の変哲もない棒のようなものが去年と今年を貫いていると言う意味だが、その通り。今日は31日、昨日は30日、いずれも令和3年だ。しかし、明日は令和4年になり、来年だ。
しかし気分は改まる。棒のようなものが貫いているが、考えようによっては、今日と明日は違う世界であるとも言える。
今日は第一の生の命日。明日は第二の生の誕生日。明日から私は第二の生を生きるのだ。新しい自分の始まりだ。
そこには第一の生から貫いている棒のようなものがある(なければ何が第二の生かと思う。何が生前葬、何が出陣式だと言うことだ。生前葬や出陣式は、言わば、告別式であり、誕生日祝いということだろう)。
その棒のようなものとは、稲盛哲学に裏打ちされた私流の「応援哲学」なのだ。
第一の生で築き上げた「心の純資産」をベースに、第二の生で「応援哲学」を実りあるものにすることなのだ。
堂々たる50年の「応援人生」を生きていこうと思う。
小林 博重
月: 2021年12月
サスティナブルな地域創生とは、
来年1月12~13日に九州(長崎と福岡)に出張する。福岡では、久しぶりに、九州北部信用金庫協会の篠原専務との博多の角打ち新年会で懇親を深める予定だ。そし て、13日にはYouTube動画撮影で篠原さんと対談予定だ。テーマは『地域創生と信用金庫』を考えている。先週、そのことを篠原さんにお願いしたところ、即快 諾のご返事を頂戴した。
篠原さんは、普段から大学生に『信用金庫と地域経済』というテーマで講演をされていらっしゃるとか。昨日、『地域活性化の処方箋』と題して、篠原さんが考える地 域創生の見方考え方を【A4】1枚で簡潔に箇条書きしてメールをいただいた。篠原さんは信用金庫一筋の御仁で、日ごろから「信用金庫が地域創生のキーカンパ ニー」と仰っていらっしゃる。私がミッションと唱えている『地域創生』は、せいぜいOUEN塾をスタートさせた平成26年くらいからだからまだ10年も経っていな い。『地域創生』のひよっこだ。OUEN Japanは、初めてのOUEN塾を開催した福岡と私のふるさとである石川(能登)の2地域から並行して『地域創生』サ ポートを考えているが、先駆者である篠原さんにアドバイスをいただきながら進めていきたいと思っている。
人は、この世に生を享ける時、天はそれぞれにミッションを与えるものだと私は考えている。
では、私に与えられたミッションとは何か。私は何をするために、この世に生を享けたのか、そんな思いは青年の頃から心に疼いていたような気がする。
盛和塾に入塾して、稲盛哲学を学び、「世のため、人のために生きることが全ての人のミッション」という思いに至った。では、「私に与えられたミッショ ン」は何か。私は何が得手で何ができるのか、何をしたいのか。それを45歳から25年間、七転八倒し、紆余曲折を経ながら、齢70にまで来てしまった。
そして、漸く、確信と言えるところまで、その入り口に辿り着いたというところだ。そして、これからの、70歳からの第二の生50年がある。
私のミッションは、3つある。
1. OUEN COMPANY
志高い起業家を応援することだ。経営の才は私は持ち合わせてはいない。このことは今までの25年間で痛いほど自覚するに至った。しかし、天は、私に、誰より も勝っている得手を与えてくださった。それをフルに活かすことだ。すなわち、「活私奉公」ということだ。
私の「ずうずうしく誰の懐にも飛び込んでいく。そして、ちょっと厚かましいが、小林だから許してやろう」と言っていただける性格自体が私の得手だと勝手に思って いる。その得手を磨き続けることだ。そして、企業同士を結び付ける「繋ぎ役」として、志高い企業を応援することだ。
2. OUEN塾
未来を担う学生を中心とした若者たちを応援することだ。日本人大学生や来日留学生がメインだが、未来を担う若者たち全ての応援団になりたいと思う。彼ら に、学び、住み、働く地域を知り、愛し、地域に尽くす人間、相手のことを思い遣ることができる、温かい人間になってほしいと思う。
3. 地域創生(地域から日本を創生する)
地元中小零細企業が中心となって、住み、働き、学ぶ、地域を元気にしていくことを応援することだ。OUEN Japanは、その応援団(黒子)として、OUEN COMPANYの皆さんと若者たちと協働して、地域を応援したいと思う。
あくまでも主役は地元に根を下ろし、根を張っている地元の中小零細企業であり、個人だ。それをOUEN Japanが応援団長になって、地元以外のOUEN COMPANYの皆さんと学生の皆さんと協働して、黒子の立場で地域に貢献することだ。
ともすれば、東京をはじめとする都会の企業がお金を吸い取っていってしまう、お金(血液)を地元の中で循環することが地域創生につながると篠原さんは仰る。
その具体的施策を考えることだ。そのために、信用金庫の役割は極めて大きいものがあるのではないか。そして、黒子としてのOUEN Japanは、今こそ面目躍 如といきたいものだ。そして、地元の皆さんが考え行動することだ。それがサスティナブルな地域創生になるのだ。
この年末年始にじっくり考えよう。そのためのウォーキングは最高の動く書斎になる。
小林 博重
第一等の資質を持った人物を目指す。
私は年中無休の日々過ごしているが、お客さまとのアポイントは今日の午前が最後だ。今日の午後から、30日、大晦日、正月3が日の6日間は、2時間ウオーキングをして心身のリフレッシュに努めようと思う。
今年は700枚の年賀状書きをアウトソースしたこともあり、ゆったりと仕事三昧の師走を過ごすことができた。
一匹狼であるので、今までは、仕事に関しては、全てを独りでしていた。特に、師走は200名のOUEN望年会の手配(ホテルとの交渉、式次第の予定、座席表の作成、ビンゴ景品の募集等)と400枚の年賀状の宛名とコメント書きは私独りで行なっていた。そのため、出張はおろか、都内のお客さま訪問もほとんどしなかったしできなかった。
しかし、今年はコロナでOUEN望年会は中止した。また、ankとのコラボで、私の超アナログのビジネス&ボランティアは、アナログ(小林)&デジタル(ank)の融合で、幅広且奥深になり、枚数を300枚増やして700枚の年賀状はアウトソースができ、師走には福岡・長崎の出張は2回、大阪・京都、富山にも出張することができた。
多忙だったが、ゆったりとした充実した師走を過ごすことができた。
仕事は独りで抱えるものではない。独りで抱えてできる仕事は高が知れている。それとオールラウンダーでもない凸凹人間の私では、たとえ大きな構想があったとしても、独りでは消化不良になって心身のストレスは溜まるばかりだろう。
大組織に所属することは私には向かないと思って飛び出したことは、人間関係のストレスを溜めないという点では良かったと思うが、どうしても独りでできることは限られているので、この点で心身のストレスは溜まる。
この弱点をどうしたものか、と日々考えて生きてきたが、やはり凹んだところを埋めてくれる"信頼できる人たち"とのコラボが、その悩みを解決してくれた。
そして、そのさまざまな"信頼できる人たち(個人・法人)"は多ければ多いほど、思い描いた構想は実現に近づくと思う。
稲盛和夫さんは、呂新吾の著書『呻吟語』が述べている"リーダーの資質"について、下記のようにお話しになっている。
リーダーが持つべき資質について、中国明代の思想家呂新吾は、「深沈厚重なるは、これ第一等の資質」と著書『呻吟語』で述べています。つまり、リーダーとして一番重要な資質とは、常に物事を深く考える重厚な性格だと言うのです。
呂新吾は、更に続けて、「聡明才弁なるは、これ第三等の資質」とも述べています。「頭が良くて才能があり、弁舌が立つこと」は三番目の資質でしかないと言うのです。
現代社会を見ると、政官財を問わず、呂新吾の言う第三等の資質しか持っていない人物がリーダーに選ばれていることが多くあります。確かに、彼らは能力があり、有用な人材であるかもしれません。しかし、果たして彼らがリーダーとして相応しい資質を備えているかどうかは疑問です。
私は、現在の社会が荒廃している原因の一つに、このように第三等の資質しか持ち合わせていない人物を、我々自身がリーダーに選択していることが挙げられるのではないかと思います。
現在の混迷を脱し、より良い社会を築いていくには、呂新吾が述べる第一等の資質を持った人物、つまり素晴らしい「人格」を備えたリーダーを選ぶことが大切です。
これはリーダーに限った話ではない。全ての人に当てはまることだろう。
私が公私ともにお付き合いする人は、第一等の資質を持った人、第一等の資質の人間になろうと思い日々努力を重ねている人であるべきだ、と言うことだろう。
その様な人たちの緩やかでも強固な人間的繋がりがあってこそ、大きな仕事を成し遂げることができるのだ。
小林 博重
「幸運(ラッキー)」を呼び込み、「幸せ(ハッピー)」な人生 を送る秘訣
東大応援部の精神である[3Sスピリッツ]は、①サービス、②サクリファイス、③スタディだ。
②のサクリファイスは自己犠牲、滅私奉公と訳されるが、私にはどうしてもこのレベルを目指すという思いになることはできなかった。
この3Sスピリッツを唱えた中島清成先輩が言わんとされたことは、「人のために尽くすことが応援の真髄だ」ということだろうから、それに沿って私なりに意訳したのが、自分を活かして人に尽くすという[活私奉公]だ。
何事も本質志向で物事を考えるということだろう。そうでないと、言葉が独り歩きして、間違った方向に突き進んでしまうことがある。その典型的事例が、戦時中の「神風特攻隊」ではないかと思う。心意気だけでは、目指すところに到達することはできない。
コロナ禍は全人類にとっての災難だ。戦国の武将、山中鹿介幸盛は「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と月に祈ったと言うが、いくら山中鹿介でも、自分を鍛えるためにコロナを与えてくださいとは言わないだろう。
災難はできれば遭わないに越したことはない。しかし、人生生きていると自然災害は避けることができない(戦争など、人類の欲望が引き起こした災難は人類の賢さで避けることができるのだろうが、人類の欲望がある限り、戦争はなくならないのだろうか。悲しいことだ)。
せいぜい、「災いを転じて福となす」ことだろう。松下幸之助さんや稲盛和夫さんが仰るように、「順境よし、逆境さらによし」「苦を磨き砂とする」と思うことで、身に訪れる全てのことを自分を磨く人間修養、人生修養と前向きに捉えて生きることだろう。 そして、どんなことがあっても、「私は運がいい」と前向きに思って生きることだろう。
今年は、そのことを身に沁みて味わった年だった。齢70、古稀にして漸く「悟りの入り口」にたどり着いたというところだが、それでもあと半世紀の人生があると思うと、その頂上に少しでも近づくことができるように、これからの後半生を精進して生きようと思う。
「私は運がいい」
全てに亙って私は運がいい。本当にそう思う。そう思うことで益々運がつく人生になる。人生とはそんなものだ。
幸運(ラッキー)はコツコツ、地道で正直、真っ直ぐな人生を生きることで、自分にやってくる。そして幸せ(ハッピー)な人生を送ることができるのだ。
世のため人のために尽くす人生を送ることだ。
小林 博重
帰って来たラッキー⑵
私は能登にいた小中学時代に、2匹の犬を飼っていた。1匹はハッピー(幸福)であり、もう1匹はラッキー(幸運)だ。数年に一度の寒波で日本海側に大雪が降るとのニュースで、懐かしくハッピーとラッキーを思い出したのだ。
さだまさしは、「いのちの理由」で、
♫幸せになるために誰もが生きているんだよ♫
と歌っている。
人間は誰もがハッピーになるために生まれて生きている。
では、全ての人間がハッピーな気持ちで生きているかと言ったら、今の世知辛い世の中、物は豊富にはなっても心は昔よりずっと貧しいのではないか。
ハッピーはお金ではない。ハッピーは心だ。ハッピーは相対的なものではなく絶対的なものだ。他人より多くの財産を持っていることがハッピーではない。自分の心が豊かであること。誰とも比較できない幸せがハッピーと言うことだ。
ハッピー(幸福)が来てほしいと、私はスピッツのハッピーを玄関で飼ったのかもしれない。そして、幸福な人生は幸運がもたらしてくれるんだと思って、シェパードのラッキーを家の背戸に飼ったんだろうか。
幸運とは宝くじや競馬の当たりくじのようなものではない。人はよく思わぬ僥倖が巡ってくると「ラッキー‼︎」と叫んで喜びを表す。しかし、ラッキーは思わぬ僥倖ではない。
日頃の切磋琢磨、心を磨くこと、真っ直ぐ生きること、地道な努力を積み重ねることからラッキーは身に訪れる。
「帰って来たラッキー」は、弛まぬ人間修養があってのことだ。
2匹の犬から、そんなことを思った。
小林 博重
帰って来たラッキー
日本列島に数年に一度の寒波が来ているという。今朝の東京は今年一番の寒さだ。そして、日本海側は大雪だ。
私が生まれ育った能登は高い山がないため、立山連峰がある越中富山や白山がある加賀とは違い、さほど大雪に遭遇することは少なかった。しかし、昭和39年の豪雪では、道路に積もった雪に屋根から落ちた雪が重なり、それでなくとも狭い道路は幅1mくらいになったことを鮮明に覚えている。
私が飼っていたスピッツのマリはこの「39年豪雪」で車に轢かれて死んだ。
そんなこともあり、父は生まれたばかりのスピッツとシェパードを七尾の友人から貰ってきてくれた。私はスピッツを「ハッピー」、シェパードを「ラッキー」と名づけ可愛がった。私はこの2匹を一緒に育てた。そして、玄関にはハッピー、背戸にはラッキーをおいたのだが、2匹とも番犬の役割は果たしてくれなかった。2匹とも大変人懐っこい犬で人に吠えることは全くなかった。犬は飼い主に似るというが、まさにその通り、この2匹は「お人好しの犬」だった。
何年か経って、その人の好いラッキーがチェーンを切って居なくなってしまった。私はもう帰ってこないと諦めていた。
1年経った頃だろうか。夏休みに家の電話が鳴って「おまんち(お宅)のラッキーが小学校でドッヂボールのボールを噛んで割ってしまった」と。
学校に行ったら、まさにラッキーがいるではないか。そして、ラッキーは私のところに駆け寄ってきた。そのことを「帰ってきたラッキー」と作文に書いたところ、それが石川県の懸賞作文で表彰された。 それから何ヶ月経って、またラッキーはまた浮浪の旅に旅立っていった。
ハッピーはと言えば、私が高校1年で金沢に下宿していた時、祖父が仕掛けた「ネズミ取りの毒」を飲んで死んでしまった。
大雪が降ると、私は3匹のペットのことを思い出す。3匹の死の体験があり、私は「決してペットは飼わない」と思う。
祖父母と父の肉親の死は勿論だが、ペットの死も同様だ。ペットは人間にとって家族なのだ。
「死」という別れが人の感性を豊かにする。
「苦は楽の素」「苦を楽しむ」と言われるが、死=苦によって、人間は成長するものだ。
小林 博重
JR東海拓殖会長との再会
昨日(24日)は共立メンテナンス中村社長、岸名古屋支店長同行にて、JR東海品川本社に拓殖会長を訪問した。拓殖さんは東大応援部の2年後輩だ。 拓殖さんはブラスバンド部、幹部の時はブラスバンド責任者として神宮球場で頑張った。
応援部は3パートあって、私が属していたリーダー部、拓殖さんのブラスバンド部、それに私が卒部して数年してできたチアリーダー部だ。この3パートのコラボレーションは日本の応援にしかないらしい。
OUEN Japanのネーミングは、台湾出身で法政大学卒の李佳容さん(ベネフィット・ワンに勤務していた)の「日本の応援スタイルは素晴らしい。小林さんが創るNPOのネーミングはOUEN Japanがいいのではないか」とのアドバイスに依る。
東京六大学野球は東京の6大学(東大、早稲田、慶應、明治、法政、立教)間のリーグ戦で、春と夏の年2回、明治神宮球場で開催される。大学野球のリーグ戦は全国各地で開催されているが、天皇杯を下賜されているのは東京六大学野球ただ一つの伝統ある大会だ。 昭和30年代は立教の長嶋、40年代は明治の星野、法政の田淵、山本浩二等、プロ野球の名選手を輩出した。
私の現役時代では、4年の幹部(昭和49年)の時、東大以外の5大学に甲子園組が入り、久しぶりの人気のリーグ戦になった。
法政の江川の最初の1敗は秋の東大戦だった。この時の感激は今でも強く印象に残っている。
拓殖さんとはそんな話に花が咲いた。
大学応援部だけの付き合いだが、半世紀経っても昨日のことのように心は昔日に帰る。利害関係がない付き合いは今で言うサスティナブルな付き合いになるのだ。
拓殖さんや第一三共社長の眞鍋さん等、ブラスバンド出身が大組織のトップになっている。
私はリーダー部で、組織の中でトップを目指そうと銀行に入ったのだが、私自身の個性の問題だろうが、どうしても我慢ができずに飛び出してしまった。 組織で偉くなる人は素晴らしいと思う。私には向いていない。
私のような生き方をするのは、それはそれで個性を活かして、得手を磨いて社会貢献をするのであれば、それも良しということだろう。
人それぞれ、悔いのない人生を生き抜くことだ。
小林 博重
篠原幸治さんの「観光エコバッグ」
九州北部信用金庫協会の篠原幸治さんとは、[OUEN塾in福岡・北九州]で定期的に福岡県に出張することになって、親しくお付き合いさせてもらっている。
私が西武信用金庫の髙橋理事長に、「OUEN塾を福岡県で開催したいと考えている」とお話ししたところ、それではと篠原さんをご紹介していただいたことがきっかけだ。
篠原さんは、北九州市戸畑のご出身。戸畑高校が甲子園に出場した時の野球部員のお一人、甲子園球児だ。
北九州ご出身ということもあり、北九州発祥の『角打ち』の常連で、私は何回かさまざまな角打ちに連れていっていただいた。
コロナで出張ができなかったこと、コロナ緊急事態宣言解除の後でも、日帰り出張や宿泊を伴う出張でも接待があったりして、ここのところ角打ちはご無沙汰している。 年が明けて福岡出張のおりには、行ったことがない角打ちに連れていっていただこうと思っている。
昨夜、篠原さんから、「勝手に観光大使になった」とLINEをいただいた。
10月に伺った時、福岡市中心部の地図をデフォルメしたティシャツをいただいたが、今月はそのエコバッグもいただいた。これは篠原さんが自費で制作したものだ。 添付した写真は、ニッキン(日本金融通信新聞)に取り上げられたものだ。
篠原さんは、青山学院大学を卒業して、全国信用金庫協会に入社し、現在は、彼のふるさとである福岡県に本部がある九州北部信用金庫協会で専務理事をなさっている。ふるさと愛が強い戦略家だ。
OUEN Japanのミッションは「地域創生」であり、OUEN塾の最初の開催地である九州北部(福岡、佐賀、長崎)と私のふるさとである北陸(富山、石川、福井)の2地域を並行して展開していきたいと思っている。
九州北部については、篠原さんにもご協力いただいて少しずつ形にしていきたいと思う。
小林 博重
幸せは、「自分自身に自信を持つこと」から始まる。
今日(12.22)から一泊二日の富山出張だ。北陸新幹線はくたか565号(東京13:24〜富山15:56)に乗車する。最速のかがやき号でなくても2時間半で東京から富山に行くことができる。近くなったものだ。
本日は、竹原工務店の竹原社長と、ゼオライトビジネス(井水浄化システム提案)の打ち合わせだ。ゼオライトの富山マーケット開拓に貢献できればと思う。
また、私のミッションである地域創生(北陸の地域創生)のこともある。
北陸地方は富山県、石川県、福井県の3県だ。特に富山県と石川県は旧前田藩、加賀百万石であり、関係は深いものがある。
私が生まれた石川能登の中能登町は、富山県氷見市と県境を接していて、祖母は氷見市出身だ。能登は富山県と陸続きであるが、富山湾を挟んで海続きでもある。私が幼い頃はテレビの電波が悪く、NHKも民放も、金沢よりも富山からの映像がきれいだった。特に富山の北日本放送から流れてくる「富山県民の歌」は毎日聴いていた。そのため、私は今でもこの歌を誦じて歌うことができる(石川県民歌はうろ覚えだが)。
そんなことで、地域創生は能登や金沢がある加賀は勿論だが、それと同じレベルで富山のことを考えたいと思っている。
私が考えるに、地域創生の主役は、その地域に根を降ろしている個人や法人であり、決して自治体や金融機関ではない。地域創生には「よそ者、バカ者、若者」が必要だと言われるが、それは応援団でしかない。応援団(黒子)に徹して、地元の人たちを応援することでないとサスティナブルな地域創生にはならないと確信している。
OUEN Japanは、地域創生の応援団として、地域創生の火付け役を買って出ようと思っている。そのための知恵者が「よそ者、バカ者、若者」なのだ。
そんなことを考えていると、新幹線は長野を経て日本海側に出る。川端康成の「雪国」ではないが、空の高さや色は真逆だ。私が大学を受験した2月の体験は、私にはそれは衝撃的なものだった。空が高く青空だと、心も明るく前向きになる。冬の日本海側は暗い。
そんなこともあるのだろう。私の年代の社会科の授業では、太平洋側を表日本、日本海側を裏日本と呼んでいた。今は差別的、侮蔑的ということでこの言い方をしないようだ。 そんなことを言ったら山陰地方や山陽地方はどうなんだ。こんなことまで言いがかりをつけるとは、世知辛い世の中になったものだと思う。
人間、それぞれ一人として同じ人間はいない。人間でも地域でも、他との違いはその人や地域の個性であり、それをアピールポイントとして、自分自身に自信を持つことだ。幸せはその自信から始まるのではないか。
小林 博重
『応援哲学』を全うする。
令和3年も残すところ10日になった。コロナに始まりコロナで終わる「グッと我慢」の年だった。昨年初めから続く新型コロナ騒動はいつまで続くのだろう。
勿論、コロナは災いであることは間違いないが、「災いを転じて福となす」前向きに人生を捉える姿勢がなくては人間は成長しない。
何事も”思い”が人生を決める。人間は、前向きな陽転思考を持てば必ずどんな災難でも乗り越えることができる。
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」(アラン)
私にとって令和3年は「明らめる(あきらめる)」という点で、69年の人生の中でも特別な年だった。コロナ禍、長崎IRの挫折等、さまざまなことがあった。人間の醜さ、弱さを身に沁みて実感した年だった。
そして、その混沌の中から「自利利他」「活私奉公」「応援の本質」を実感し、この哲学を持って生きることが、幸せの正道であり、ビジネスの成功にもつながること、ボランティアとビジネスは底辺で太くつながっていることを身をもって知ることができた1年だった。
持続可能性
サスティナブル経営
SDGs
ビジネスは Win Winが基本であり、ビジネスの正道だ。 Win Winが Win Win Winに拡がり、その連鎖はサスティナブルに続いて拡がっていく。 人生=ビジネスであり、要は「幸せになることはそんなに難しいことではない」ということだ。世のため人のために尽くすことが幸せへの近道だ。 今年は、そのことを実感として強く悟った特別な年だった。
稲盛さんは盛和塾で一般的な経営のノウハウはお話しされない。心のありよう、人間の生き方を繰り返し繰り返しお話しされる。
「そんなことは当たり前ではないか。こどもじゃないんだ」と思い、経営のノウハウを学ぶことができない盛和塾ならば退塾しようと思う人も一人ならずいる。
しかし、心のありよう、人間の生き方こそが、経営ノウハウの基本中の基本なのだ。それがサスティナブル経営につながる。そして究極の幸せな人生につながるのだ。
一生かけてもそのことを分からないで終わる人もいるだろう。そんな人のほうが多いのだろう。
そうではない。それを私はこれからの後半生(第二の生)で証明したいと思う。
堂々たる人生を歩むことだ。
正道を歩むことだ。
如何に甘い言葉と餌をぶら下げて誘ってきても、決して邪道を歩いてはいけない。
私が第一の生で築いてきた『応援哲学』を全うすることだ。
小林 博重