おかげさまで、私を訪ねて多種多様な方々がいらっしゃる。それはありがたいことだ。
時には誰にも分かる「とんでもない人」の時もあるが、そのような方々は皆無とは言わないが、最近は少なくなった。"類は友を呼ぶ”の諺通り、私のレベルが昔に比べアップしたせいもあるのだと、自分の成長を喜んでいる。 しかし、皆無ではないのだから、その隙間を潜って潜入してくる輩もいる。気を付けなければならない。
しかし、悩ましいのは、仏の仮面を被って近づいてくる人たちだ。その仮面は、私が存念としている「義」の仮面だ。私にはあまりご縁がない「利」を前面に出すことはしない。
「義」があっての「利」という、「義」を貫いていくための「利」だと、それは強かにプレゼンされる。それが仮面か心根か、私の未熟な眼力では見分けがつかないことが間々ある。
ストンと胸に落ちることでなかったら、少し怪しい、と思ったら「君子危うきに近寄らず」と関わらなければいいようなものだが、そんな君子では「成ることも成らない」。 吉田松陰、西郷隆盛、坂本龍馬のような維新回天の立役者は、決して、このような君子ではなかったことを考えると、”清濁合わせ飲む”器量を持たなければならないと思う。
その器量は私一人の能力では持ち得ないことであれば、私をしっかりと支えてくれる「信頼できる人」の力をお借りするオープンさが私には必須であろう。まずは、その「信頼できる人」を見つける眼力だ。 その人を見つけるのは、ある意味では簡単だ。その人との出会いは「胸にストンと落ちる」ものだったという直感、第六感があった人だろう。その感性なら私にはある。
小林 博重
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