人の世を生きていくということ、これを人生という。そして、人生を生きるということは、魑魅魍魎が蠢いている濁世を生きることであり、何にも侵されていない、生まれたままの純真な心は、いとも簡単に濁世に染まってしまう。
“理想の大人”とは、純真な子どもの心を持って生きることではないか。しかし、それは果たして可能であるのか。
夏目漱石は「草枕」の冒頭で言っている。
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
生まれたままの純な心で生きるには、とかくに人の世は住みにくいのだ。
人間は、挫折しながら生きていく。濁に染まりながら、生きていく。それが大人であるなら、そんな大人にはなりたくはないと思う。 やはり、純な心を持ち続けて、この世を全うしたい。それがあるべき”大人”であり、”生きる”ということではないか。
真っ直ぐの高速道路を走っていた。順風満帆の人生を送っていけると思っていた。
しかし、その高速道路はずっと続いていなかった。
高速道路を降りて走り続けると、その道は狭く曲がりくねった道になった。石ころばかりの道になって、走るに走れない。山道は下を見ると絶壁で、私の運転技術では脱線転落間違いなしだ。このままでは死の底に落ちてしまう。
もう、車を降りるしかない。そして、自分の足でコツコツと地道に歩いていくしかない。
居直ると、世の中は捨てたものではない。
今まで気がつかなかった風景が目に入ってくる。道端の名もない草花の可憐さに心を打たれる。このように生きてみたいと思う。心が洗われる。
愚者は経験から学ぶ。曲がりくねった石ころの道でも、幼心をそのまま心に抱いて、強かではない”健かな心”を持って逞しく生きていくことができることに気がつく。それを哲学にまで高めていきたいと思う。
中学生の頃だろうか。武者小路実篤をよく読んだ。下村湖人の「次郎物語」に感動した。
この道より我を生かす道なし
この道を歩く (武者小路実篤)
大いなる道というもの あると思う
心は未だも消えず (下村湖人)
下村湖人はこうも言っている。
「お互いに助け合わないと生きていけないところに、人間最大の弱みがあり、その弱みゆえにお互いに助け合うところに、人間最大の強みがあるのである」と。
小林 博重