「戦う」をアウフヘーベンして「闘う」人生を送る。

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人類は平和を願う。戦争することが好きな人はいないだろう。しかし、この世界から戦争がなくなることはない。大なり小なり、世界のどこかで戦争(もどき)という「あらそい」をしている。 朝ドラの「エール」で戦時中の場面を放映しているが、人間の愚かさを感じざるを得ない。
「○○ファースト」というキャッチフレーズは「たたかい」を内包しており、決して平和を目指す言葉ではない。人類のあるべき方向性としては間違っているだろう。
しかし、私たちは日々「たたかって」生きていることに間違いはない。そして、その「たたかい」に勝つことで幸せになることができる。
果たして、この矛盾はどうしたものだろうか。
私たちは「たたかう」に2つの漢字を使う。一つは「戦う」であり、もう一つは「闘う」である。
ネットで調べると下記のように書いてある。
「戦う」
物理的に争ったり、試合をすること。目に見えるものと争うこと。
①武力を用いて互いに争う。戦争をする。
②技量を競い合うために勝負する。試合する。
「闘う」
目に見えないものと争ったり、負けないように努力すること。
①思想や利害が対立する者同士が争うこと。
②苦痛や障害などを乗り越えようとすること。
前者の代表は「戦争」であり、後者は「闘病」「自己との闘い」が挙げられるだろう。
前者は"悪”であり、後者は"善”といえるのではないか。
競技で「たたかう」ことは、相手と「戦う」ことであるが、勝利を自分に呼び込むためには「自己との闘い」で勝つことが必須だ。
言うならば、「戦う」人よりも「闘う」人は高次元に「たたかう」人といえるだろう。
小池百合子東京都知事が広めた言葉に「アウフヘーベン」というドイツ語がある。
アウフヘーベン(Aufheben)は日本語で止揚とか揚棄とか訳されている。ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念である。
その意味は、
あるものをそのものとしては否定するが契機として保存し、より高い段階で生かすこと。
矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。
古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのではなく、古いものが持っている内容のうち、積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
人間は「戦う」ことをアウフヘーベンして「闘う」ことをしなければならないのだ。
私たちは日々「たたかい」の連続の中に生きているが、ともすれば「戦い」に終始して、自らをアウフヘーベンすることをしていないことが多いのではないか。
「戦い」を「闘い」にアウフヘーベンして、自らを磨き続けることで人格の陶冶を目指さなければならないと思う。
小林 博重