「100年人生を生きるコツ」
⑺頭を使った生き方=”悪人”になって生きること
年をとると人間が丸くなるとか、いい人になるといった話を以前よく聞きましたが、それは幻想です。そんな人がいたら、それはダメな人。水が清くては、魚は育たないのです。
思うに、昔の年寄りは遠慮していたのではないでしょうか。丸くなったというのは、反対すべきときでも反対しないということ。経済力がないから自信を失って、にこにこ笑って若い人に迎合するのです。
頭を使った生き方とは、極言すれば、”悪人”になって生きるということです。安住せず、しかも新しい何かを生み出す力がある。道徳的な善悪を超えたところで何か新しいものを創造する。いい意味での破壊者です。
前に『「マコトよりウソ」の法則』という本を出したのですが、「マコトよりウソ」なんて聞くと、常識的な人はギョッとする。マコトよりウソのほうが優れているという考え方は、常識的な人には居心地がよくないのです。 まして、悪が必要だなんて聞いた日には、びっくりしちゃうでしょう。
⑻「常識的」は無害だが存在感もない
なんでも常識的にやっていれば、周囲からほとんど批判されません。しかし、批判されないのは安全ですが、退屈ではないでしょうか。
多少の批判をされても、それを乗り越えることがおもしろいのです。乗り越えられなければ失敗になりますが、たとえ失敗しても、乗り越えんとする試行錯誤があったほうがいい。
これは男女に関係なく、生き方の問題です。家庭の中の仕事だけしていれば、それほど失敗もないからわりあい正しくて、いいことだけしましょうと言っていられます。
社会に出れば、そこは一種の戦争です。汝の敵を愛せよとばかり言っていたら生きていられない。なんとか相手を倒そう、出し抜こうと頭を使い、あれこれ試行錯誤する。そこには若干の”悪”が入ってきます。
人間は競争する生き物なのです。でも、家庭にいれば競争しなくてもいい。競争しなくていい人は道徳的になれます。
一方、負けるより道徳を無視しても勝ったほうがいい、という言い方が当然起こってきます。理想と現実ではないですが、世界を見まわせば、こうした態度はいたるところにあります。道徳的にはよくないけれど、しかし生きていくには必要だということ。
たとえば北朝鮮の金正恩がいろいろな動きを見せていますが、彼は生きていくためにああいうことをするしかないと思っているんじゃないですか。
みんなから非難されても、傍若無人に振る舞うことによって存在感を発揮する。これはひとつのあり方です。道徳的にやっていたら、弱肉強食の国際社会では見向きもされない。道徳的なのは無害ですから。
そういう人がいることを認め、どうやって付き合っていくかということを考えられる頭も必要です。