土曜日は2時過ぎに帰宅した。少し休んで事務所に行く。いろいろと仕事が溜まっている。九州の出張先へのメールも出さなければならない。月末の作業もある。
なんだかんだで土曜日に終えたかと思いきや、思い出したこともいくつか出てきて、日曜日は早朝から昼過ぎまでバタバタと時間が過ぎた。やっと落ち着いたのが日曜日の13時過ぎだった。
14時から16時半まで2時間半のウォーキングで心身をリフレッシュする。
仕事があること、自由があること、好きなことをすること、少し心に余裕を持つことで、生きている喜びを感じることができる。
コロナのせいもあるのだろうか、芸能人の自殺の報道が頻繁だ。昨日も竹内結子さんが亡くなった。お子さんも2人目が生まれて順風満帆だったろうに。人への気配りも欠かさない、人間として「できた人」だったようだ。三浦春馬さんも真面目で真摯に人生を生きていた青年だったとか。
真っ直ぐに生きている人が、何らか人生の壁にぶつかって死を選ぶ。ボーッと生きている人は何も考えていないので、ノホホンと生きているし、生きていける。
冷静に自分を見つめることや、家族やお世話になっている人たちのことに思いを致せば、死を選ぶことはないと思うのだが、その判断をできなくなるから自死に至るのだろう。
私も人生のある時期に、そのような思いを持ったことがある。それは何年か続いただろうか。
「生きるとは何か」「自分の存在意義は何か」等、直ぐに結論が出ないことを考え出すと止まることがない。考え方次第なのだと思うが、それが大きな壁となって絶体絶命の心境になる。
「生きる」とは、生まれてきた原点に思いを致すことではないか。
奇跡としか思えない確率で、この世に生を享けた。そして自分に与えられたミッションを見つけた時、人はその生を全うして、そのミッションを果たそうと思う。
自死に至る人たちは、真剣に自分に与えられたミッションを探そうとしていたのだが、探しきれなかったか、探しきれなくとも、そのミッションを見つける「道」を見つけることができなかったのだろう。悲しいことだ。
川棚町のカラオケで、ある人が「暁に祈る」を歌った。この歌は軍歌ではあるが、その1番の歌詞を聴いて、私は人間愛、家族愛、平和の歌のような気がした。
「暁に祈る」
ああ あの顔で あの声で
手柄頼むと 妻や 子が
ちぎれるほどに 振った旗
遠い雲間に また浮かぶ
戦時中である。
「手柄頼む」としか言えない時代だ。「手柄なんかどうでもいい。何がなんでも生きて帰ってきてほしい」というのがほんとの心ではないか。 「ちぎれるほどに」手を振った心境には心が痛む。涙が出て止まらない。それほどの家族愛なのだ。戦争は悲しい。平和であってほしい。
○○ファーストなど、世界のリーダーであるべき米中の指導者は果たして温かい心を持った人間なのだろうか。
強く生きることだ。温かく人を思うことだ。
レイモンド・チャンドラーは小説「プレイバック」で、私立探偵に言わせている。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」
と。
小林 博重