「敬天愛人」と「応援人生」⑤

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一昨日の大雨から一転して、昨日は風は強く冷たかったが雲一つない晴天。やはり晴れは心を明るくする。
6時前に起床し、事務所で朝風呂に浸かり2日間剃っていなかった髭を剃る。一昨日の運動不足を解消するためにもウォーキングだ。7時前に事務所を出て、(いくつかある)いつものコースだ。 外苑前⇨四ツ谷⇨靖国通り⇨防衛省前⇨市ケ谷駅⇨靖国神社⇨千鳥ヶ淵緑道⇨半蔵門⇨麹町⇨赤坂見附⇨青山⇨外苑前
事務所に着いたのは10時過ぎ。約3時間強だ。いつもより少しゆっくりめに歩いたようだ。
ボーッと歩いているようでいろいろ考えている。時々、いいアイディアが閃く。やはり、健康だけではなく精神衛生上も、私にとってウォーキングは意味がある(パートナーたちに言われた。一日せいぜい1万歩くらいがいいのだと。100歳現役であるためには、歳相応な運動でないといけないんだと。そうかもしれないが、することないからなぁ〜)。
44歳。21年間勤めた銀行を退職した。なぜ辞めたのか?
昭和51年4月に安田信託銀行に入社して、平成9年5月(44歳6ヵ月)まで、21年2ヵ月勤めた。
渋谷支店⇨神戸支店⇨人事教育部(研修と採用)⇨人事企画部(人事異動と人事企画)⇨新宿支店⇨札幌支店⇨本店営業部⇨法人部
20代と30代後半〜44歳は、主に対事業法人、30代の7年3ヵ月は人事の仕事だった。
私が性にあっていたと思うのは、①採用と人事異動、②事業法人開拓のような気がする。いずれも大きく「人」に関わる仕事だ。
①の採用と人事異動は、学生と社員(私は新人〜中間管理職)
②の事業法人開拓は、主に中小中堅企業のトップ
彼らとのコミュニケーションがベースの仕事だ。私は企画のような頭を使う仕事よりも人との触れ合いが性にあっている。あまり頭脳明晰な人間ではない。極めて人間臭い、義理と人情で生きている人間だ(全く経営者には向いていないと思う。それは素直に自覚している)。
事業法人開拓は、中小中堅企業のトップに会うことが私の仕事だ。彼らの話を聞き、本音を聞いて、その困りごとが分かったら、その解決のために、私が人事部のおり採用した優秀な部下にバトンタッチする。人事関係が長い私は、その解決のためのノウハウを持っていないからだ。私はオールラウンダーではないから、私の凹んだところをカバーしてくれる仲間たちを大切にしないと生きていけないと本能的に分かっていたのだろう。
そして、親しくなった社長さんたちの何人かが、私に言う。
「小林さんはあまり銀行員には向いていないね。是非一度、稲盛和夫さんが塾長をなさっている『盛和塾』にオブザーバーとして参加してみませんか。刺激を受けること間違いなしですよ」 私は彼らに、よく、松下幸之助さんや本田宗一郎さんの話をしていたからだろう。この2人の後を継ぐ人は稲盛和夫さんなのだからということなのだ。 稲盛和夫さんの謦咳に接して私の人生は変わった。人生の価値観が180度変わったのだ。
「人は何のために生きるのか」「私が生まれてきた意味は何か」
私がその時目指していたのは銀行という組織のトップだった。それが目的だったのだ。いつのまにか「志ある銀行家」は何処かに行ってしまっていたのだ。 「手段が目的化する」よくあることだ。しかし人生はそうであってはいけない。それは「天に唾する」ことではないか。
「世のため人のために尽くす」ことが私のみならず人間の生まれてきた意味なのだと。稲盛さんのお話を聞いてそう思った。
その時の銀行はバブルが弾けた後で、本来の「金融の目的」を果たすことよりも生き残りで精一杯の時だった。皆、大蔵省ばかりを見ている。護送船団だから仕方がない。目指す銀行の姿から大きく舵を切らざるを得ない時だった。 銀行では、私が目覚めた「生きる哲学」を果たす場所はない。そんな思いが日増しに強くなっていった。
可愛がっていただいた安田信託銀行ではあるけれども、あと半分の人生、リスタートをしてみたいと思った(20年以上経った今でも、「あと半分の人生」と言っている自分は、その進歩のなさに、ちょっと情けない気もするが)。
小林 博重