「敬天愛人」と「応援人生」④

投稿者:

昨日は4月とは思えない寒い雨の一日だった。東京の最高気温は二桁には至らなかった。平日の月曜日だが、私のような自由業は出勤はどうにでもなる。
ウォーキングもできない。自宅で本でも読もうと思って事務所から持ってきたが、珍しくその気は起きない。一日中、自宅に篭ってテレビと昼寝の不健康な生活を送った。これでも人との接触8割減にはなっていると納得して、こんな日も偶にはいいと納得しながら、いろいろなことを考える。
コロナは人類の敵であることは間違いないが、この禍いを福となさなければならない。転んでもただでは起きてはいけない。コロナの遭遇が「磨き砂」だったと思う発想の転換をしなければならない。じっくりと我が人生を振り返り、私の「生きてきた原点」に思いを致し、残りの後半生のリスタートにしたいと思う。
どうして、私には相応しくないと思う「金融機関」に入ったのか?
大学を卒業して公務員になろうと思っていた。応援馬鹿と言ったら聞こえはいいが、所詮勉強をしなかっただけだ。中央官庁をドロップして、文京区西片の下宿で不貞寝していたところ、日頃からお世話になっていた井口さん(応援部OB、元安田信託銀行専務)からお電話をいただいた。
応援部の同僚から、私が公務員をドロップしたことを聞いたのだとか。それでは就職はどうするのか。安田信託銀行はどうか。一度、人事部に顔を出してみてはどうかと言うお誘いのお電話だった。
私は銀行など就職先として考えたこともない。当時の三井銀行や三和銀行からもお誘いはあったが、全てお断りした。公務員になろうと思っていたからだ。しかし、井口さんには一方ならぬお世話になっている。無下にはできない。ありがとうございますと人事部をご紹介いただいた。 その人事部の採用担当者は橋本さん。人間味ある、気さくなお兄さんだった。
橋本さん曰く「安田信託銀行は銀行ではない。どうしてか?銀行はトップを頭取と呼ぶが、信託銀行は社長と呼ぶ。一般の会社は社長だから、信託銀行も一般の会社で銀行ではないんだよ」と。
信託銀行はどう考えても銀行だ。しかし、私のキャラに合わせて、そんな冗談のようなことを言って「入社して頑張ってみろ」と仰る。私の銀行員のイメージは覆った。単純だ。そんなことで、当時は一生ものであった就職を決めた。 しかし、そう決めた後に、私なりの「就職を安田信託銀行に決めた意味」を考えた。
私の就職観は就社ではなかった。やはり、祖父がいつも私に言っていた「お国のために尽くす」職に就くことだ。お国=官僚で公務員を志望していた。
では、金融機関でその目的を果たすことができるか。よくよく考えた。私のような漠然と就職を考えている人間ではなく、「世のため人のために」と言う高い志を持って起業する若者がいるだろう。明治の初め、渋沢栄一や安田善次郎はそのような起業家に血液である資金を提供した。そのお陰で明治政府の殖産興業政策を後押ししたのだ。渋沢栄一は金融のみならず、多種多様な会社の設立・経営に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれた。 私は単なる銀行屋ではなく、志高い「銀行家」になろう。そんな理屈を付けて信託銀行に入社した。
安田信託銀行は人間味溢れる、私の自由気儘を許してくれる、大らかな社風の会社だった。それだから21年間も勤めることができたのだろう。
小林 博重