小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり

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稲盛和夫さんの『心に響く言葉』を再度読み直す。
私がやろうとしていることは大善なのか、それとも小善なのか。
稲盛さんの「大善と小善」の講話とはちょっと違うだろう。
しかし、まだよく分からない。
しかし、分からないのであれば、やはり私は「大善と小善」を自分の血肉にしていないのだ。人間ができていないことなのだ。
今私がしなければならないことは何か。熟考して行動しよう。
小林 博重
稲盛和夫さんの講話から
もう1つ、リーダーの条件を申し上げます。
部下からの申し出、意見をただ、「いいわ、いいわ」と認めていたのでは会社は決してうまくいきません。
優しい情愛に満ちた人であると同時に、すさまじい厳しさを兼ね備えた人でなかったら、社長なんて器は務まりはしません。
どんな小さい会社でもそうです。
つまり、同一人物が両極端の考え方をあわせもち、そしてそれが同時に正常に機能できる能力を持った人でなければ経営者は務まらないと思います。
ただ優しいばかりの社長では、経営になりませんし、厳しい一方の人では誰もついてきやしません。
その両方が綾織りのように出てくる人でなければ、経営者なんてできやしません。
私は、いつも善の大切さを説いています。
だからみなさんもそれに引かれて話を聞きに来られる。
人間らしい優しい、いい生き方をしなきゃいけませんよと、いつも私が説く考え方に、みなさんは賛同しておられ、それを自ら実践されているはずです。
そのような優しい、すばらしい経営者の方が、この不況で会社が赤字に転落をしそうなとき、「経費を減らせ」と言って、もう鬼みたいになってやり出すことがあります。
そうすると周りは、「いつもあの優しかった社長とは違うやないか。二重人格みたいなものやないか」と言い出す。
でも、私はそれでいいと思います。
会社が厳しい状況になったら、鬼みたいな形相で、厳しいことを一直線になさねばならないのです。
反対するような敵は千万いても、我ひとりその敵に向かおうという、そういう気概を持って、自らを鼓舞して進んでいってもらいたいですね。
逆に問題なのは、嫌われるのがいやで耐えられないから、お茶を濁し、妥協し出すことです。
善を説き、人の優しさを説き、それで人の喜びが自分の喜びに、人の悲しみが自分の悲しみに感じられるような人こそが、経営者にふさわしいということと、私が必要だと思う厳しさとは、考え方のベースが一緒なのです。
これは仏教の教えである、「小善は大悪に似たり」「大善は非情に似たり」ということから説明ができます。
「ええわ、ええわ」といって、猫なで声で従業員をかわいがるという小善は、みんなを甘やかし、経費は増大し、不況にひとたまりもないぐらいに脆弱な企業体質をつくってしまいます。
そして実際に不況になり、会社をつぶして100人の従業員を路頭に迷わしてしまうのです。
確かに従業員に対して人がいいという小善、小さな善はしたかもしれないが、大悪をなしたのではないか。
私はそういう小善はしない。
「ええわ、ええわ」というわけにはいかんのやと。
次に大善。
大きな善というのは、非情に似て厳しいのです。
獅子は我が子を千尋(せんじん)の谷に突き落とす。
かわいい子には旅をさせよとも言います。
あのかわいい子を旅へ出して、「なんて厳しい非情な親や」とみんな考える。
しかしじつはそれが、子どもの成長には大いに役立つ大善、大きな善なのです。
だからつい、そういう意味があると知らなければ、自信がぐらつくわけです。
「俺が今やっているこの厳しさは、大善をなす行為だ」と自信を持つようにする。
「それは凡人から見たら非情に見えるかもしれないが、これは大きな善なのだ」と思えば、ひるまないわけです。
そして改革は、ズバッと本音でものが言える状態をつくらなければ、前に進まないのです。
例えば古い法律を変える際、誰に聞いても「そんな古い、明治時代にできた法律が今のこの時代に合うはずがない。それは廃止すべきです」と言うはずです。
しかし廃止すれば、路頭に迷う人がものすごく出る。
そういう「人でなし」なことはできないと考える人も多くいて、つまり人に嫌われることをしたくないものですから、改革が進んでいかないのです。
根底にはみんなから信頼をされ、慕われる社長でなければならないけれども、たまには、厳しくて嫌われるようなことも言う。
あえて嫌われることも必要です。
社員のみなさんを路頭に迷わせないためにも、私は経営者のみなさんに厳しいことを言います。
つまり、ただ人がいいだけで会社をつぶして、全員を路頭に迷わす、そいう悲惨な目には遭わせたくない。
私はみなさんを救うために、あえて厳しいことを言います。
それこそが大善というものです。
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