今日のTBSの「サンデーモーニング」の今週のテーマは『幼児化』だった。人間はどうしてかくも幼くなってしまったのか。
アメリカをはじめとする「◯◯ファースト」は自分さえ良ければいいという子どものようだ。全体知を追求しなければならない大人にならなければならないのに「オレがオレが」という自己中心的な人間ばかりがトップに君臨している。冷戦時代は、民主主義か社会主義かという思想の闘いだったが、今は人間の本能的欲望、武器で勝敗を付ける、いわば人間らしくない「低レベル」の闘いなのではないかと。
ちょうど、曽野綾子さんの『人間の芯』を読んでいたところだった。
帯には、
〜なぜ、かくも日本人の「芯」がここまでひ弱になったのか。精神の豊かさを問い直す、至高の「幸福論」〜
とある。
第一章からの抜粋
利害を離れて人のために働けるか
動物と人間とはどこが違うか、というと、動物は自分が得になることしかしない。自分の欲望に従っていきる。犬橇に繋がれる犬は夢中で橇を引くが、実は引きたくはないので、人間が鞭を振るって無理やり引かせているだけのことである。
しかし、人間には、自分が、得になることしかしないような人間だとは思われたくない、という気持ちがどこかにあるはずである。いや、あるはずであった、と過去形で言ったほうがいいかもしれない。 今はそうでない知識人や若者や政治家がたくさんいるからだ。
人間になるためには、利害を離れて、人のために働くことのできる存在にならなければならない。それが人間の資格だからだ。そしてそれは、不思議な見返りを伴っている。人の役に立つということは、金銭的・時間的・労力的な面だけ計算すれば、損をすることになるかもしれないが、精神的には、それを補って余りある充足感が残るのが普通である。
人は誰にでも、生き方の中心となる美学、哲学というものがあるべきだ、と私は思っている。哲学などというと、難しい印象を受けるかもしれないが、その人なりの生きていく知恵と言い換えてもいい。「哲学」という言葉は、英語で「philosophy」(フィロソフィー)だが、これは「知恵を愛する」という意味である。
これは、フランスの諺である『ノーブレス・オブリージュ』(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会の基本的道徳と同様であり、日本の武士道精神もほぼ同じである。
勿論、人間は平等であり、まずは「自分」が第一ではあるのだろうが、リーダーたる者、人間の矜恃、誇り、プライドを持つべきではないか。 現代に、リーダーに相応しい、矜恃、プライドを持ったリーダーはどこに存在しているのか。
嘆かわしい時代になったものだ。
小林 博重