昭和の快男児『安藤明』を想う。⑵

投稿者:

野人「安藤明」を知るに及んで、私は『命』『奇跡』について今まで以上に考える。
彼は還暦の歳に昇天した。人生100年時代の現代では、まだまだこれから事を成すことができる年齢だ。しかし、その60年間で誰も成し得なかった歴史的貢献を日本國のために成した。人生は長さではない。どれだけ与えられた人生を「世のため人のために」尽くしたか、その闘魂と実績が偉大な人生であったか否か問われるのだ。
私自身を振り返る。馬齢66年余りを重ねて、果たして私は何をしてきたのだろうか。その実績は何があるのだろうか。決して小市民の人生ではなかったが、さりとて何か「世のため人のために」尽くした実績があるかといったらそうではない。また、その想いも野人「安藤明」の足元にも及ばない。
人生は100年。この意味は、私にとっては100年現役(残り33年余り)で「世のため人のために」生きることだ。そうでしか、「私が生きた証」があるとは思えないのだ。
人は生きているだけで人のためになっているとも言われる。ある意味でこれは一つの真実であり哲学だ。そして私はまだその域には達していない。しかし、その域に達したいとは思わない。私は仕事の最中に息絶える人生でありたいと切に願うものだ。
66年何も成してこなかった私ができることは、これからの34年の現役人生で「世のため人のために」生きて、その実績を挙げることだ。そのためにも命を大切にして誰にも負けない努力精進を重ねることだ。人は人それぞれ天から与えられたミッションがあるのだから、それを果たして天に召されるべきなのだ。
野人「安藤明」に巡り会うことができたのは、彼のお孫さんの安藤裕美さんとの出会いがあったからだ。彼女には何か分からないがオーラがある。それは野人「安藤明」の血が彼女に流れているせいなのかもしれない。私は彼女に会って、『奇跡』という言葉が頭から焼き付いて離れなかった。さだまさしの『奇跡』という歌をYouTubeで何度も聴いた。そして、お祖父様の安藤明さんにたどり着いたのだ。
メンターとは、人生における「指導者」「助言者」「教育者」「理解者」「支援者」のことを指す。私には一人ならずメンターがいるが、野人「安藤明」は私にとって最高最大のメンターの一人だろう。その生きざまを肝に銘じておきたい。
小林 博重
iPhoneから送信