【働き方改革】の議論に忘れてはならないもの

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5月17日の産経新聞に【働き方改革】について、はたと納得する文章が掲載されていた(筆者は清湖口敏氏)。
日本でこれまで実施された改革は全てが音読みの漢語を冠した改革だと。例えば、構造改革や規制改革、行政改革、政治改革、郵政改革、選挙制度改革、税制改革等。
それに対して今回の働き方改革は訓読みの和語が使われている。「労働改革」などと漢語名にしなかったのは、そもそも「労働」と「働き」とは意味が大きく異なると。 そう言われればそうだ。労働者と働き者は意味が全く違う。就職希望者が「貴社で働きたい」と話してもまさか「貴社で労働したい」などとは絶対に言わない。 論者が言うように、労働は肉体本位の表現であるのに対し、働きは精神本位の表現なのだ。すなわち、対価を得るための「労働」と、自らの生きがいにつながる「働き」だ。
働きの本質は周囲の人を楽にし、喜ばせ、公共の役にも立つことだ。働くことに社会的貢献を意識することが、働きがいや生きがいにつながるのだ。すなわち、労働=レイバーであり、働き=ワーク、さらに突き詰めれば、働き=コーリング(天職)だ。
アドラーは、自らの働きが公共に役立っていると感じられることによってのみ、人は劣等感を緩和することができると説いたのだとか。他者への貢献意識こそが自信に満ちた人生につながるとの筆者の論は全く同感する。
私の人生哲学は、「人は独りでは生きていくことができない。人は人の力を借りることによって独りではできない大きな夢を果たすことができる。それはお互い様だ。だから、人はそれぞれが、天からその人にだけ与えられた得手(得意技)を、人の役に立てるため不断の努力で磨き続けることが大切なのだ。それが人間なのだ」というものだ。 持ちつ持たれつ互いに助け合うことが人間の正道なのだと思う。仏教の根本思想である「縁起」は、一切は他のものを縁として相互に依存しあっているということだ。
柳生家の家訓も縁の大切さを謳ったものである。
小才は、縁に会って縁に気付かず
中才は、縁に気付いて縁を生かさず
大才は、袖触れ合う縁をも生かす
やはり、世のため人のために尽くすことが「働く」ことなのだ。
政治家や官僚、大企業幹部等、自己保身に汲々としている人たちは、口先だけで、本来の「働く」ことをしていないのだ。
昨今の「働き方改革」の議論は、長時間労働をはじめとした労働環境を改善することである。「労働者」に視点を置いている。それがベースであることは論を待たない。 しかし、同時に、「世のため人のために」働くことが、本来の「働く」ことなのだと言う原点に立ち返ることがなければ、日本の再生はないのではないかと思う。
小林 博重
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