性善説、性悪説、性弱説

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私のビジネスは人と人を繋ぐことですので、日々多種多様な人たちとお目に掛かります。また、銀行時代は長い間人事部勤務であったため、新規採用や中途採用、人事面談等、人を評価することが仕事でした。それは、決して上から目線ということではなく、常日頃、否が応でも、人を「評価」することをしてまいりました。そして、現在は、Mapビジネスに加えてOUEN Japan で多くの若者と接し、彼らの成長をサポートすることが私のミッションになっています。
人の性を見るとき、孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」が言われます。
これは人間が先天的に持っている性が、「生まれながらに善の存在なのか悪の存在なのか」というものであり、性善説は「人は善の存在であるから信じるべきだ」とか、性悪説は「人は悪の存在だから疑ってかかるべきだ」という考え方ではありません。
私は定義を間違って覚えていたことと、私の人が好い性格も輪を掛けて「人は生まれながらに善である。濁世に染まって悪の存在になるのだから、先ず私から信じることをすれば人は善に戻るのだ」と考えていました。そして、世の荒波にもまれながら思い至ったことは「人は生まれながらに善であるとか悪であるとか」と言い争うことは意味がないのではないか。いずれにしても「後天的に『人生の生き方』を学ぶことで人間は成長していく」と言うことです。
人間は皆、何らかのミッションを持ってこの世に生まれてきたと思います。その性は、無垢ではあっても善悪で評価されるものではないと思います。
純白の絹はそれだけでも美しいと言えるのでしょうが、子どもがそのまま大人になってもそれは美しいとは言えないでしょう。その絹をどの色で、どのような方法で染めていけばさらに美しくなるのかを追求することが意味があるのです。
動物は生を全うするために、必死に、自らや自らの種の保存という本能だけで生きています。善悪は関係ありません。利己行動しかとらないのが動物です。では、百獣の王の頂点にいる人間はどうか。
人間には動物にはない「心」があります。そして人は1人では生きていくことができないことを身をもって知ると、生きるための「利己行動」は次第に深化していくのです。「人のために尽くすことが実は自分のためにもなることなのだ」と。利己は利他に繋がり、利他は利己に繋がっていることを身をもって理解するようになるのです。
これが徹底されれば世の中のすべての人間行動はウィンウィンウィンになるのですが、なかなかそういうわけにはいかないのが現実です。しかし諦めてしまっては決して理想の社会は実現しません。諦めず、明らかに究めるのです。
人の性は善でも悪でもなく、教育によって善に進化していくのです。
また、人の心は弱いものですからつい楽をしようと浅はかな考えを持ち、悪に染まることになります。嘘をつかないこと、人のために尽くすこと、人を裏切らないことが正しいことであると思っていても「心の弱さ」がその逆の行いをしてしまうのです。「性弱説」ですね。
私の人間観として「人は弱い存在」だと考え人を優しく見つめる人間でありたいと思います。
小林 博重