下山の思想

久しぶりに青山ブックセンターで新書本を買い込み、クーラーを効かせた事務所で読書三昧の3連休を過ごしました。
『孤独のすすめ〜人生後半の生き方〜』(五木寛之著)には、これからの人生後半戦に向かい、大局観を持って客観的・前向きに生き抜いていくにあたり、実に示唆に富んだ一冊でした。
私は還暦を過ぎ、一般的にはまもなく老人の仲間入りをする65歳になろうとしています。
相田みつをの「一生青春、一生燃焼」やサミュエル・ウルマンの「青春」〜青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。人は信念と共に若く疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く失望と共に老い朽ちる〜をこよなく愛しそのようにあるべく生きてきました。
しかし、還暦を過ぎたころから視力・聴力・反射神経、その他諸々の身体機能の衰えを自覚せざるを得ない身を以て実感する現実があります。
また、生きとし生けるものの生は有限であり「青春の心意気」だけでは死を乗り越えることはできないと言う厳然たる人間の宿命を想うとき、自らの死生観を確立して残りの人生を生きていくことが幸せな人生を送るにおいて不可欠なことだと徐々に考えるようになりました。
以前、稲盛和夫さんと五木寛之さんの共著が出版されたとき、私はお二人の出版記念講演を拝聴したことがあります。
お二人とも昭和7年生まれで私より20歳年長です。稲盛さんは経営者であり、五木さんは小説家であり著述家。稲盛さんは根明で五木さんはどちらかと言えば根暗。人間に対する切り口は正反対なところがありますが人間の生に対する「真摯さ」は全く以って共通しており、私はお二人の著作は「生き方の道標」として好んで読んでいます。
『孤独のすすめ』から、
人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と全く四つの季節が巡ってくるのが自然の摂理です。
五木さんは、青春は生まれてから25歳まで。朱夏は26〜50歳。白秋は51〜75歳。玄冬は75歳〜と。
登山に例えれば、青春と朱夏は登山であり、白秋と玄冬は下山だと。
登山は、脇目も振らずひたすら山の頂上を目指して登り続ける。重い荷物を背負って一歩一歩、無我夢中で登り続ける。そうして、ついに頂上を極めるのです。
しかし、それで事足れり、とはいかないのが「登山」です。ひとしきり頂上に佇んだ後、今度はそこから「下山」しなくてはなりません。それを安全、確実にやり遂げてこそ「登山」は成り立つのです。下山は、ただの「移動」ではなく、むしろ下山こそが「登山」の真髄であり、より重要なプロセスなのです。
下山は、登るので精一杯だった時には振り返って見る余裕もなかった景色がひろびろと目の前に展開しています。足下の高山植物に気づいたり、低木の茂みから飛び出した雷鳥に驚かされたり。自分の人生の”来し方行く末”に思いを馳せたり。
私は60有余年、人生を真摯に生きてきたと思いますが「人は何のために生きるのか。自分はどのようなミッションを授けられてこの世に生まれてきたのか」と深奥から考えて生きてこなかったように思います。ようやく還暦になってそれらしきものを掴んだ感じがしていますが、人生100年時代の今日であっても遅きに失したのが本当のところです。反省はしても後悔しないのが人生の鉄則です。 私にとって、青春と朱夏は60歳まで。61歳から90歳までの30年間が白秋であり、91歳以降が玄冬です。
これからの白秋の時代は、青春の心意気は失うことなく、下山の思想を以って、現状を明らかに究めて受け入れること。受け入れた上で、視点を転換して新しい展開を模索すること。青春や朱夏の時代に体験したこと失敗したことを活かす知恵を発揮すること。素直に自分の限界を認め足らざるところを人さまのサポートでカヴァーすることだと思います。
小林 博重