大学で講義をすることや、子どもに知識や世間を教えることが「教育」ではありません。
教育とは「教えて育てる」上から目線の一方通行ではなく、「教えて育つ」対等で双方向の人格の陶冶です。教えて「育つ」人は、教えられる人だけではなく、教える人も育つのです。
私の考える「応援=OUEN」も教育と同様です。双方向の人格の陶冶なのです。
応援する人はプレイヤーが勝利することを願って、欲得なく声援を送ります。その声援がプレイヤーの闘魂を極めるのです。応援する人は、プレイヤーが「応援していただいてありがとう。おかげで勝利することができました」「負けはしたけれど精一杯力を出し切りいい試合ができました。次は勝つことができるように精進努力します」との感謝と誓いの言葉を返してくれることで、応援して良かったと思うのです。
[人格の陶冶(じんかくのとうや)]=自分は他の人とは違うという自我の意識を持ち、それでいて自分勝手にはならずに他人の自我をも認め、社会の中で役割を果たしルールを守って行けるようになること
OUEN Japan は、「教えて育つ」対等で双方向の人格の陶冶を目指します。
すなわち、私が発する言葉は、人に向けられる前に自らに向けられているものだということです。まず自分がどうあるべきかということです。
生きることは自らの教育です。正しいことの「率先垂範」、正しいことの「有言実行」です
[OUEN塾in福岡]キックオフMTGに、オブザーバーとして福岡女子大学理事長・学長秘書の山崎沙耶香さんがお見えになりました。彼女は謙虚で気遣い溢れる品性豊かな女性です。彼女からの心温まるメールをいただき、「教育=応援」の真髄を教えていただいた気がしました。
下記「老子の言葉」は、山崎さんが常に心がけていることだと。私も肝に銘じます。
小林博重
【自らを低く謙虚に居ること】老子の言葉 第六十六章
大河や海が多くの河川の王様となっている理由は、それが最も低い所に存在するからであり、だからこそ低く存在することにより無数の河川の王様となれています。だから、民衆の上に立とうと思うならば、必ず謙虚な言葉を持って民衆にへり下り、民衆の先頭に立とうと思うならば、必ず自分の身を民衆の後におくことが大切です。
こういうわけで聖人は、民衆の上にいましても民衆は重いとは思いませんし、聖人が民衆の先頭に立っていましても民衆は障害とは思いません。そのために天下の人々は、聖人を喜んで推薦して嫌がる事がありません。聖人は誰とも争わずに推薦されるために、天下社会に聖人と争うことが出来る人間は存在しません。
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「物事に成功したり、大きく成れるためには、低く謙虚に居ることを意識しなさい」と老子が示唆しています。
大きな大河は、低い位置に在るからこそ、幾千もの小川「から」合流して来ます。高い位置に本流の場所・入れ物が在りましても、小さなモノは参加したくても出来ません。
しかし、社会では知らずに高い位置に物事を用意して設定しているものです。例えば、銀行から個人がお金を借りたくても、その許可をする設定は高い位置にあるでしょう。このようなことが、色々な視点で世の中には存在しています。これと同じことが、個人の生活や人生にも言えると感じます。
友人が少ないと嘆く前に、自分が知らずに高い位置に居ないかを注意しましょう。仕事が上手く行かないと心配する前に、自分が低く謙虚で居るのかを考えて見ましょう。自分が貧乏だとあきらめる前に、それでも生かされている原点への感謝の心が自分に有るのかを静観して見ましょう。
自ら低く謙虚であれば、すべてが集まる大河のように色んな物事が自然と集まる自分自身に成れる可能性を老子が言っています。
高みから低みへと水が流れるのは、この世の法則です。だから自分が低く謙虚で居ることは、何事も自然と自分に集まるように成って行くのです。そして、お金持ちに成っても、その人が低く謙虚であれば、周囲の人は非難もせずに邪魔もしないということです。
自分を低く謙虚に維持するとは、何とお得(真の徳)なのでしょうか。
何が有ろうとも、短い限定の時間(人生)の中での出来事に過ぎません。あっという間に、辛いことも楽しいことも終わります。それならば、自らを低く謙虚にしながら、思いっ切り生きるのが最善なのです。どんな事も良い思い出に、必ず変わって行きます。