晩節を汚す人

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最近頓に功成り名遂げた人が「晩節を汚す」ことが多いと感じます。どうしてまたそのような人が晩節を汚すことをしてしまうのか。それは人が生きていくために与えられた「欲望」のなせる業なのでしょう。できる人は必ずしもできた人ではないということです。私たちはできる人を目指す傾向がありますが、人が幸せになるためにはできた人を目指す努力精進が不可欠なのだと思います。
中国明代の儒学者呂新吾は『呻吟語』のなかで、人物の資質について、第一等は深沈厚重、第二等は磊落豪遊を挙げています。そして聡明才弁は第三等の資質に過ぎないと喝破しています。
晩節を汚す人たちは、第三等の資質である聡明才弁な頭が切れて弁が立つ人であり、謙虚と感謝の心はあまり持ち合わせていらっしゃらない方々なのでしょう。
私たちは、深沈厚重(どっしりと落ち着いて深みのある人物)、そしてその次に磊落豪遊(細事にこだわらない豪放な人物)を目指したいと思います。そして、人さまに生かされているという謙虚と感謝、それに誠実な心を持って日々精進を重ねていけば幸せな人生が待っているはずです。
小林 博重

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